死をもって放たれよ 韓国人の看取り

今月号の月刊文藝春秋に、友人の菅野朋子さんが「『儒教の国』の孤独な老人たち」という記事を書いている。
http://gekkan.bunshun.jp/articles/-/1133

タイトルの「儒教の国」はカッコ付けになっているので、おそらくここが問題提起の一つなのだろう、敬老や家族主義といった「儒教的なもの」が崩れつつ韓国の現状が丁寧に描写されている。彼女とは日頃からいろんな話をしているし、今回も取材に関しての相談などをうけたので、知っている内容もあった。でも、できたものを見たら、へえ〜と思うことも多かった。特にいいことを知ったと思ったのは、最後に出てくる「追悼の森」の部分である。

「追悼の森」とは散骨のための施設だ。韓国のお墓は元来は土饅頭式で、一族の山の日当たりのいい場所に、順番に作られていく。日本も儒教の影響をうけた「先祖代々の墓」があるが、韓国の場合は「先祖代々の山」である。

そこに1人一個ずつお墓が作られるわけで、代を継ぐごとに墓が増え続けることになる。韓国の地方都市を旅すると鉄道の沿線などで、小さな山の南斜面に延々とお墓が続く景色が見られるが、それに限界があるのは一目瞭然。どれだけ国土があっても足りない。不動産高騰の折、生前に住む家だけでも大変なのに、死後のことはもう勘弁してほしい。それに先祖代々の山を管理し、一族の供養を続けるのも、少子化の影響などもあり大変になっている。いずれ墓守がいなくなるのは、日本と同じだ。

そんなことで、最近は「火葬→納骨堂」という手軽な形式が定着していたのであるが、「そんなことぐらいなら、いっそのこと山や川に散骨してほしい」という人が、今の50代ぐらいから一気に増えている。いわゆる韓国の団塊の世代にあたるこの層は、親世代の儒教文化を尊重しつつも、「そこまではやるけど、俺はもういいよ」という人々。知り合なども多くも散骨希望者だ。希望者が多いのは知っていたが、すでにそのための「森」ができているのは菅野さんの記事で初めて知った。
日本でも共同の墓は流行のようだが、それだって墓は墓。一戸建てがマンションになっただけで、墓の概念はあまり変わらないような気がする。共同の森はそれとは違う。家や所有など俗世の概念から、死をもって文字通り解き放たれる。いいなと思う。

もう一つ、この記事の中で、老後の行き先として「療養病院」というのが出てくる。これは治療ではなく療養を目的とした病院で、高齢者の最終施設的な役割をしている。要介護の人が多く、日本の特別養護老人ホームに近い。ただ病院なので身の回りのことは付き添いの家族がしなければならない。でも、多くの家族は24時間の付き添いなどできないので、「看病人」という名前の介護者を雇うことになる。その費用は1日7万、一ヶ月200万wと記事にはあった。

ここまでは私も知っていたのだが、昨日、別件で会った女性からさらに踏み込んだ話を聞いた。彼女の義母も何年も前から療養病院に入っている。2人部屋と4人部屋があり、当初は2人部屋を希望したのだが、寂しいからと4人部屋に移った。介護の人は各部屋に1人ずつ、24時間そこに寝泊まりしながら2~4人の患者さんの面倒を見る。おむつの交換、食事の介護、着替え、トイレ誘導などすべて。簡易ベッドで寝ながら、それを1人でこなす。
「あんな大変な仕事、韓国人にはできない」
韓国人にはできない? 
彼女の義母の病院の「看護人」はすべて中国朝鮮族だという。以前は韓国人もいたが、最近はそういう仕事は外国人ばかりになっているようだ。病院に泊まり込で働いて、月に200万w。そこからエージェンシーにいくらかはもっていかれる。患者の家族にとっては四等分だから、合理的といえばそうだけど、看護人側は人数が多ければ、それだけ仕事の量も増える。患者と看護人との個人契約。法律的にはすれすれだろう。
「でも、彼女たち外国人は死ぬ思いで1~2年それをやれば、母国で家が1軒立つ」
それなら私もやれるかなと言ったら、ちょっと驚かれた。

家族に介護されず看取られることもないことを、日本では「孤独」としている。韓国人はさらにそれを嘆き悲しむイメージがあったのだが、最近はどうだろう? もう最後を看取るのは家族どころか、同国の人でもない。「散骨」と「外国人による看取り」。そうして家族、所有、そして国からも解き放たれる。
これは日本より韓国の方が先に進むかもしれない。彼らはいつも階段を1段おきで、駆け上がってきたし、何よりも韓国の儒教はすでに祖先よりも子孫を優先することを選択したのだから。