崔吉城著『米軍慰安婦の真実』を読んで

崔吉城先生のテーマは、いつも興味のストライクゾーンに入ってくる。先に書かれた『朝鮮出身の帳場人が見た慰安婦の真実』もそうだったし、植民地における宗主国の建築物に関する比較研究もそうだ。オリジナリティのあるテーマが、独自の調査と思考で論じられていく。韓国関係の本はいささか食傷気味でもあるけど、崔先生は特別だ。いつも最優先で読み、そして考える。
この本も何度も読んで、ずっと考えている。

少年が見た米軍慰安婦の村
生まれた村が米軍慰安婦の村になった物語は、著者の幼少期の体験から始まる。好奇心旺盛な少年が新しいもの、珍しいものを、積極的に観察し記憶する。著者は幼い頃の自分に問いかけ(インタビューし)、記憶(証言)の裏付けをとっていく。一流の文化人類学者が自分自身を取材対象にして物語を再構築していく、この本の前半分は掛け値なしに面白い。
特に日本の敗戦から解放、朝鮮戦争の部分は、私自身が昨年インタビューし、まとめた「北朝鮮出身の元NATO軍軍医、ドクター・チェ」(『中くらいの友だち』第3号)とも背景を同じくする。38度線と軍事境界線は違うのだという確認は、奇しくも私自身も強調した部分である。
さらに、この物語は私の母の物語にも通じる。私の母も80歳を前に自分の記憶を一冊の小冊子にまとめたが、それは自分の生まれた街が「遊郭」になった話だった。軍の連隊が置かれて軍都となると同時に、市の一角には遊郭が、計画的に作られた。母は幼い目で見た遊郭の様子を、70年後に文章にした。日本の遊郭で暮らす少女もまた、朝鮮の慰安婦の村の少年と同じぐらいの好奇心で、街と世の中の変化を眺めていたのである。
前半はあっという間に面白く読んだのだが、後半では疑問がいろいろ出てきた。大きくは以下の2つだ・
1, 韓国人の民族感情に、対日と対米で大きな差があるのか
2, 韓国人と日本人の貞操観念の違いは、近代化の速度の差によるのか。あるいは文化的にまったく異なる素地があるのか。

1, 韓国人の民族感情に、対日と対米で大きな差があるのか
7月半ば、愛知大学オープンキャンパスで担当している「現代韓国事情」の最終回、崔吉城先生の新刊『米軍慰安婦の真実』を紹介しながら、「米軍基地村での性売買”慰安婦”に損害賠償」問題をとりあげた。「米軍慰安婦」については今年2月、韓国の国家責任を認める判決が出ている。http://japan.hani.co.kr/arti/politics/29733.html 
「日本以外の国にも「慰安婦問題」があったなんで、私はいままで知りませんでした。大変、ショックです。なぜ、知らなかったのでしょう」
女性受講者が何度も驚きを訴えた。すると、男性受講者が「それは、マスコミが偏向しているからです」と決まり文句。それに対して、「偏向というより、視聴者が関心がないことは報道しないだけでしょう。日本軍慰安婦問題は日本に関係があるけれど、米軍慰安婦問題は直接関係ないから」と、常識的な意見が出る。
ただ、「米軍慰安婦」は韓国でも長い間、大きな問題とされずにきた。日本メディアの偏向云々についてはともかく、韓国国内の問題に関しては、私が説明する必要がある。
崔吉城先生は『米軍慰安婦の真実』の中で、「対日」と「対米」のダブルスタンダードを指摘されるが、私はそこがうまく理解できない。韓国人は日本に対しては厳しく、米国に対しては甘いということがあるのだろうか?
私自身が暮らした1990年代〜2000年代の韓国は、反米運動がとても盛んだった。それあ洋泉社新書の2冊の著書にも書いた。たとえば光化門の米国牛肉輸入反対デモに2万人、ところが同じ時期の日本大使館前の慰安婦関連集会には200人というのが、日常的な風景だった。韓国人のナショナリズムは「敵」を必要とする「対抗ナショナリズム」という印象が強いが、その「敵」は状況によって相手を変えるように見える。時には「反日」、時には「反米」、また「反中国」を強く感じる時もある。それは時の政府の、政治外交上の事情が深く関係しているように思う。
慰安婦」問題についても、民族的な感情というより、政治的な便宜主義(政治外交のカード)を強く感じる。しかし、崔先生は、国連軍の性的暴行や米軍慰安婦がこれまで語られてこなかったことを問題にする。
「ここで、どうしても私に、一つの疑問がわいてくる。なぜ、明らかな犯罪である国連軍の性暴力、つまり米兵が朝鮮戦争の時にひどい性暴行をしたということは、彼らにとっての問題にならないのか。なぜ、韓国の人たちは、このことを取り上げようとしないのか」(p179)
「韓国の人たち」というのは、政府と国民の両方を指すのだろうか? 
ただ、日本軍の従軍慰安婦についても、韓国政府が真剣に取り組むようになったのも2000年代に入ってからだ。1990年代以前には政治交渉に持ち出されることも、国民的な運動が起こることもなかった。
さらに、私が疑問に思ったのは、次の部分だ。
「性の問題に関して、フェミニズムナショナリズムは、常に緊張関係にあったが、敵対(?)する日本に対するものとは対照的には、アメリカに対しては非常に寛容だった」「つまり、米軍相手の売春は比較的自由であり、法律的な制約はあまりなかった」(P180)
少なくとも、朴正煕大統領時代のことを考えるなら、「日本に対するものとは対照的」というのはあたらない気がする。 崔先生も本書の中で言及されているように、日本人観光客相手の売春も特別な許可証を与えられ、かなり自由に行われていたからだ。 そして一般国民はといえば、米軍相手の「ヤンカルボ」も、日本人相手の「キーセン」も、同じように差別し、蔑んでいた。

2,韓国人と日本人の貞操観念の違いは、近代化の速度の差によるのか。あるいは文化的にまったく異なる素地があるのか。
p190から始まる「韓国人の貞操観念」という章は、大変、面白い。たとえば、「韓国人は性を抑制するために、禁欲するのではなく、謹慎する」(p191)
ここまで、儒教における性を、キリスト教や仏教などと比較して、上手に表した言葉はないのではないか。儒教は謹慎を強いる、それは女性にのみ厳格で、男性には寛容というダブルスタンダードである。性を謹慎するとは、――つまり女性においてのみ、夫に出会うまでは謹慎期間が続く。そして結婚後は夫以外との性は、たとえ夫と死別しても、「永遠の謹慎状態」となる。
ところで、その後に登場する日本人と韓国人の貞操観念の違いについては、少々理解にしにくい。たとえば「冬のソナタ」が例にあがっているが、確かにここに出てくる貞操観念は日本では1960年代までの意識にように感じる。つまり、先生が指摘されるように、日韓で、特に女性自身の貞操意識に「時差」があるのはわかるのだが、それは単に近代化の速度の差なのか、儒教や韓国文化に根ざした意識のせいなのかが、うまく読み取れない。
それはおそらく両方だと思う。
この後半部分については、ぜひ2000年代以降の韓国の変化が書き加えられるべきだと思う。
本書には1995年代半ばの大学生の性に関する意識調査の結果が例として引用されている。私はその頃、梨花女子大の学生たちと同じ下宿で暮らしていいたので、この部分はリアルに理解できる。たとえば、同じ下宿にいた女学生が強姦されたことがあったが、彼女を慰める言葉が「処女膜再生手術があるから、そんなに落ち込まなくていい」という言葉であり、実際に彼女はすぐに手術を受けた。あるいは、日本の女子高生は自転車で学校に通うと言ったら、「そんなことをしたら処女膜が破れるじゃないか」と言われた。
ただ、その後に韓国女性の変化した。2000年代に入ってから、「戸主制の廃止」、「同姓同本の結婚の許容」、「姦通罪の廃止」など、女性に関する法律が矢継ぎ早に改定された。また新生児の男女比率も解消され、今はむしろ「娘がほしい」という声を現実社会ではよく聞くようになった。また、処女膜再生手術よりも、出産後の膣を締める手術が話題になったりもした。そして、昨今のMeToo運動にいたるまで、韓国の女性たちの意識は大きく変化している。
それは表面的なものなのだろうか?
崔吉城先生の著作はいつも刺激的だ。とりあえず、ここまで書いておいて、あとはもうちょっと考えようと思う。

書評ーー朝鮮出身の帳場人が見た 慰安婦の真実―文化人類学者が読み解く『慰安所日記』

正直、『慰安婦問題』は苦手だ。にも関わらず、本を読み、感想を書こうと思ったのは、他ならぬ崔吉城先生の著書だからだ。私は先生をとても尊敬しているし、信頼もしている。崔先生ガお書きになったものなら、何でも読みたい。それが率直な動機だ。
 本は一気に読んでしまった。「従軍慰安婦問題」を扱った本で、こんなにすいすい読めたのは、大沼先生の本を除いては初めてだ。私自身が変わったのかなと思って、随分前に中断していた『帝国の慰安婦』(朴裕河)を、もう一度読み始めましたが、やはり続かない。
なぜ、先生の方は読めたのか、考えてみた。
崔先生の本の表紙や帯には、「慰安婦の真実」とか「本当に強制連行、性奴隷はあったのか」などコピーがあった。おそらく出版社にとっては、これらが現在の日本の読者にとって、最も関心のあるテーマだという判断があったのだろう。
ところで、私はそこにはあまり関心がない。「真実」とか「本当に」いう言葉は信頼していないし、「強制連行」「性奴隷」についても、対立する人々の認識のズレが激しすぎて、政治家や専門研究者ならともかく、私自身がそこで何だかの言葉の定義を得る必要を感じない。
私が先生の本を読みふけってしまったのは、そこではなく別の部分に深く引き込まれたからだ。
1、先生がハングル・日本語仮名まじり・漢字まじりの日記を読むのに、ご自身が最もふさわしいと思われたこと。
2、韓国語訳が出ているにもかかわらず、原本所有者を何度も訪ねて、原文を複写させてもらい、そこから読み込んだこと。
3,しかも、1人で読まずに、研究会を作って、お仲間の皆さんとを1年間かけて読んだということ。
4,日記に出てくる、東南アジア当地を実際に訪ね歩いたこと。さすが文化人類学者だと、これだけでも敬服した。
5,政治的に誤読されるリスクを犯しても、ちゃんと出版しようとしたこと。
先生が本の冒頭で「日記とは?」「日記を書く人間とは?」に、執拗にこだわった理由は、後半になるとわかる。日記に現れる筆者の、日本国への忠誠をどう解釈したらいいのか? 彼は慰安所の仕事に「誇り」をもっていたのではないか、という仮定。
「日記」からは「慰安所」も「慰安婦」も、「一億総火の玉」的なものの中にあったことがわかる。その意味では「挺身隊」という言葉が長らく「慰安婦」と混同されたのも、大きくは間違っていない印象をうける。「国家、天皇に身を挺する」という意味では、文字通りの「挺身」隊であったわけだ。朴裕河さんの『帝国の慰安婦』もこのあたりの問題が出てくるが、崔先生の本が新鮮だったのは、別の視点が提起されていたことだ。
「36年間の植民地支配」「皇国臣民化教育」がどんな風に人間を変え、というよりも、人間のどの部分を変えたのか。
先生がこんなふうも書いている。
「でもやはり、彼の日記の中の日本語は『私と同じミスを犯している』」と。やはりネイティブにはなれない。それは、「同じく36年間、日本で暮らした」崔先生も同様であること。
 これまで『慰安所日記』はその内容にばかり関心がもたれてきた。ところが、崔先生はその「文字」(彼の肉筆)に関心を持った。
 大日本帝国による「同化」は、植民地の人々に限られたテーマではない。終戦のその瞬間には呆然としながらも、しばらくした後に太極旗を手にした朝鮮半島の人々。敗戦に涙しながらも、その夜には電灯の明るさに喜んだ日本内地の人々。
 本書を読み終えた今、私はこの真面目な帳場人に好感をもっている。
 それが彼自身の本当の姿なのか、実はお書きになった崔吉城という研究者の分身なのか、実はよくわからない。


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関東大震災の日にー西崎さんの本の話

一昨日、日本に帰国しました。そして、今日は9月1日。この夏はずっと海外で仕事をしながら、4月に創刊した『中くらいの友だち』の最終編集をしていました。

欧州や他のアジアの国から見る日韓の風景は、当事国で見るのとはずいぶん違っていました。細かい情報が削り落とされるせいか、構図は比較的単純になり、例えば、現在の国のパワーは韓国が圧倒的な印象的だし、しかし知名度というならノースコリアの方がさらに高い。関心の順番で並べるなら、北朝鮮の脅威→韓国家電やKPOPの魅力→日本料理やアニメといったぐあいでしょうか。

一方で、海外のメディがが伝える日韓の歴史問題は、帝国主義と植民地、強者と弱者、殺した側と殺された側の関係です。それが「合法であった」とか「数字に誇張がある」とか「やられた側にも非がある」と等の話は、基本構図を変更するものではない。学術論文ならともかく、政治家や大手メディア、一般国民がそこにこだわりのは異様な印象です。

昨年、11月に朝日のウェブロンザで、「『関東大震災朝鮮人虐殺の記録』(西崎雅夫編著)の重さ」という記事を、3回に分けて連載しました。
http://webronza.asahi.com/politics/articles/2016110900003.html
西崎さんを紹介してくれたのは、友人の韓国文学翻訳家である斉藤真理子さんで、彼女たちや別の友人もこの証言集の制作にボランティアで参加していました。1年前に書いた原稿に、少しだけ手を入れ、今日9月1日にこの休眠ブログに再掲します。本来は西崎本を手にとってほしいのですが、とりあえず以下の文中にある「改ざんされた『子供の震災記』」の部分だけでも、お読みいただければと思いです。よろしくお願いいたします。

東京で起きた民族ジェノサイドの記録

 私は昨年の秋、いつになく長い時間をかけて、『東京地区別1100の証言――関東大震災朝鮮人虐殺の記録』(2016年9月、現代書館)という510ページの新刊本を読んだ。編著者である西崎雅夫さん(58)は元高校教師、30年以上にわたり、仲間と一緒に朝鮮人犠牲者の慰霊と真相究明のための活動を続けてきた。

 1923年9月1日午前11時58分、関東地方で発生したマグニチュード7.9の大地震は、死者・行方不明者10万5000人以上という未曾有のものだった。そして地震の直後から「朝鮮人が放火した」「井戸に毒を入れた」「集団で襲ってくる」という流言が出回りはじめ、その結果、おびただしい数の朝鮮人や中国人が、日本人の手によって虐殺された。
 その数は何千人とも言われているが、はっきりした数字はわからない。当時の日本政府は諸外国の目を気にして事件を隠蔽し、さらにその後も国レベルでの真相究明が行われてこなかったからだ。
 西崎さんたちが活動を始めた1980年代には、まだ震災体験者が存命であり、近隣のお年寄りから話を聞くこともできたそうだ。生存者がほとんどいなくなって以降は、都内各所にある公立図書館を周り、自伝・日記・郷土資料などに片っ端からあたり、震災時の朝鮮人虐殺事件の目撃証言を集めたという。
 「何十冊に一冊の割合でしか証言を見つけることはできないのですが、それでも5、6年かけるとかなりの証言を集めることができました」
 その集大成が、この本である。510ページ、3段組、厚さ4センチという重量感ある本の中には、1100の証言が地区別に整理され、紹介されている。
 
 正直な告白をすれば、私自身はこの本の話を聞いたとき、それほどの大きな関心はもたなかった。虐殺事件のことは「知っていた」し、日韓関係は次から次へと問題が起きてきて、それを追うだけでも大忙しだった。

9月の青空のもとで、白昼堂々と…
 ところが昨年9月、西崎さんにお会いし、実際に本を手に取った瞬間、私の考えは変わった。まず、本のカバー写真に目を奪われた。そこには虐殺が行われた荒川土手の、きれいな青空が広がっていたのだ。
 今までモノクロ写真で見ていた過去の悲劇は、暗闇でこっそりと行われたものではなく、この9月の青空のもとで、まさに白昼堂々行われたジェノサイドだった。
 そして本を開くと、目次には足立区から目黒区まで、東京23区がもれなく「あいうえお順」に並んでいる。23の区に分類された証言の総数は1100、証言者の年齢、職種、階層はバラバラである。文筆家もいれば、小学生もいるし、中には皇族方の証言も入っている。23区それぞれの地域で人々が震災直後に、「どんな噂を信じ」、「どんな恐怖にかられ」、「どんな形の虐殺を行ってしまったか」が、複数の目を通して立体的に復元されている。
 その直前に、WEBRONZAで「徳恵姫」について書く際に読んだ資料にも、震災についての記載があったのだが、それもこの本に収録されていた。 皇族から李王家に嫁いた李方子の母親、梨本宮伊都子の日記の一文である。
 「朝鮮人の暴徒押し寄せて来り今三軒茶屋のあたりに300人もいる。それが火をつけてくるとのこと。これは大へんと家に入…」(『関東大震災朝鮮人虐殺の記録』P161)
 実のところ私はこれまで、「流言に騙され、虐殺に加担したのは、下町に住む一部の血気盛んな連中や妙な正義感にかられた町の青年団的な人々」というイメージを持っていた。ところが、国家の中枢に近く、身分としては最上位、しかも娘を朝鮮の王族に嫁がせた人までが、デマを信じあわてふためいていた。
 そして、この本を読んであらためて驚いたのは、軍や警察という本来は暴徒を鎮める役割をする組織の一部が、自ら流言を拡散し、虐殺の先頭に立っていた事実である。

 1100の証言から浮かび上がる、虐殺の風景はむごたらしい限りである。生きた人間の足に鳶口をかけて地面をひきずり、針金で縛りあげた人間を取り囲んで日本刀や竹槍でメッタ突きにする。さらに斬首の目撃証言もある。
 「人間の首なんてなかなか切れるもんじゃない。振りおろすと半分ぐらい切れて、血が飛び散る。手をあわせて、おがむのをぶった切ったのを見ました」(同書P248)
 まるでIS(イスラム国)の処刑シーンのような、ルワンダ内戦の映画のような、恐ろしいジェノサイドが、東京23区全域で行われたのである。なぜ、90年前に東京の人たちは、こんなにも残酷なことをしてしまったのだろうか? 

発掘・移送された遺骨
 西崎雅夫さんの自宅は東京・荒川土手の「現場」にある。 自らそこに移り住んだのは、虐殺現場に慰霊碑を立てるにあたり、 近隣の人々からの理解も得るためだったという。
 「自分が中学生の時にサッカーをして遊んでいた河川敷が、実は震災時の朝鮮人虐殺事件の現場であり、今も遺骨が埋まっているという話を聞いたのは大学4年生の時でした。私は発足したばかりの『追悼する会』に入り、まずは遺骨の発掘にとりかかりました」
 ところが、「確かにここに埋めていた」という地域のお年寄りたちの証言にもかかわらず、遺骨は出てこなかった。しばらくして、その理由がわかった。河川敷の遺骨は震災の年の11月12日と14日の2度にわたり、警察によって発掘・移送されていたのだ。
 西崎さんたちが発見した当時の新聞によれば、14日の2度目の移送でも、「トラック3台分」の遺骨が運ばれたとあった。遺骨の移送先は、現在も不明である。西崎さんたちは調べれば調べるほど、当時の日本政府・軍部・警察が、この虐殺を徹底的に隠蔽しようとしたことがわかったという。
東京都墨田区の荒川河川敷でおこなわれた朝鮮人の遺骨発掘作業。「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し慰霊する会準備会」が現場で慰霊祭を行った=1982年9月1日
 公的な資料がない一方で、発掘や慰霊祭の現場を通りかかった近所のお年寄りからは、「私も見た」「私も知っている」という話が次々に寄せられてきた。
 そこで西崎さんたちはそうした証言をまとめて1992年に、『風よ 鳳仙花の歌をはこべ――関東大震災朝鮮人虐殺から70年』(教育史料出版会)というタイトルの、墨田区北部における朝鮮人虐殺目撃証言集を出版した。
 
 そうしているうちに西崎さんは、東京の他の地域のことが気になり始めたという。
 「自分が生まれ育った足立区や高校生活を送った上野・浅草。そこでは、震災時に何が起きていたのか?」
 ただ、その時はすでに震災から80年もたっており、当時を記憶している人はほとんどいない状態だった。そこで、23区内の公立図書館などを虱潰(しらみつぶ)しにあたって、郷土史などの資料を読み込んだのだ。 ところで、西崎さんはこの作業の中で、とんでもないものを発見してしまう。それが本書の巻末に収められた『子供の震災記』である。

改ざんされた『子供の震災記』
 『子供の震災記』は小学生の震災体験記である。発行は震災翌年の1924年東京高等師範学校付属小学校の教師たちが、生徒たちの作文のうち100人分を選んで編集した。西崎さんが最初にこの本を見つけたのは江東区の図書館だったが、特に朝鮮人虐殺の記述はなかったため、参考にしなかったという。ところが、ある日、たまたま国会図書館に所蔵されている同書を見て驚いた。
 「同じ題名の本が2冊あるので変だなと思って比べてみたら、2冊の内容が微妙に違うのです」
 一冊には朝鮮人に関する流言や虐殺に関する記述があるのに、もう一冊はそれが別の言葉になっていたり、ごっそり抜けて挿絵に変わっていたりする。さらに、奥付を見ると、記述がある方の一冊は検印がなく、記述が抜けている方には検印があるのだ。
 これが何を意味するのかは、誰の目にも明らかだ。検印のないものが原本であり、検印を受けるため、つまり正式に出版するために内容が変えられたのである。現在、区立図書館などに収蔵されているものは、すべて検印を受けたものだという。
 ところが、なぜか国会図書館にだけ1冊、原本が存在していたのである。これについて、自らも教師だった西崎さんは、次のように推測する。
 「私はこの本を作った現場の教師の一人が、国会図書館に保存したのではないかと思っています。子どもたちの作文を改ざんしてしまったことを詫びる気持ちがあったのではないでしょうか」
 それにしても、ものすごい改ざんである。詳しくは本書を見ていただきたいが、たとえば原文にある「不逞鮮人、朝鮮人、鮮人」という言葉はいずれも、「変な人、泥棒、盗人、悪人、悪い奴、脱獄人、掻(か)っさらい、不良少年」という表現に変えられ、子どもたちが目撃した暴行や虐殺を、まるで「犯罪者を懲らしめた」かのように正当化する。また、「今も一人殴り殺された」「足でふまれ木でたたかれて泣き声を挙げている」というような文章はまるごと削除されている。
 「改ざん」とともに私がショックをうけたのは、こんなにも子供の目撃証言が多かったという事実である。この時の東京の大人たちは、子供の前でも恥じることなく、残虐行為をしていたのだろうか。
 西崎さんによれば、当時の他の資料でも朝鮮人関連の記述は伏せ字にされていることがほとんどだという。「朝鮮人虐殺事件を歴史から消し去ろうという権力側の強烈な意思がうかがえる」(本書P463)というのは、まさにその通りだと思う。
 1923年といえば、1919年の3・1独立運動からまだ4年目である。虐殺が明るみになれば植民地民衆の怒りが独立機運をさらに激化させるばかりか、世界的にも日本は植民地支配の正当性を失うかもしれないと政府は恐れたのだろうか。
 ところで、この本に収められた1100の証言は、その多くが日本人のものである。西崎さんたちは「追悼する会」を発足した1980年代には韓国を訪問して聞き取り調査もしている。ところが、被害者である韓国人側の証言はとても少ない。
 実は韓国では他の歴史問題、たとえば従軍慰安婦や徴用工の問題に比べても、この事件への関心は高くない印象がある。それはどうしてなのだろう?

被害者側の証言が少ない理由

 この本『関東大震災朝鮮人虐殺の記録』の特徴の一つは、収められた1100もの証言のうち、被害者側によるものが極めて少ないことだ。
 これまで歴史的な事件を告発する本の多くは、被害者側の証言を中心に綴られてきた印象が強い。ところが本書において、韓国・朝鮮人による証言はわずか39に過ぎない。その他には中国人の証言が10、残りは全て日本人によるものである。
 既に述べたように、本書に登場する証言者の年齢、職種、階層はバラバラであり、文筆家もいれば、小学生もいるし、中には皇族方の日記等も混じっている。 実に多様な層による証言が事件を立体的に見せる一方で、被害者側からの告発部分だけが大きく欠けている。なぜだろう?
 最大の理由は言うまでもなく、直接の被害者たちが殺されてしまったからだ。当たり前だが、殺人事件では被害者本人が事件について語れない。その上で九死に一生を得た人々等による39の証言が収録されているのだが、その中には80年代初期に編著者の西崎雅夫さんたちが韓国に赴き、じかに聞き取り調査をしたものも含まれている。

 「追悼する会で渡韓調査を実施したのは1983年、1985年、1986年、1989年の4回です。そのうち、私は1983年と1985年の2回の調査に参加し、10名の生存者にお会いすることができました」
 ふりかえる西崎さんは、一度目の訪韓の時はまだ大学生だった。彼がメンバーの一人となった「追悼する会」とは、荒川土手の遺骨発掘に参加した人々によって1982年に結成された「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し慰霊する会」(のちの「追悼する会」)のことで、今も毎年9月に慰霊祭を行っている。当時大学生だった西崎さんも、今では白髪頭になってしまった。
 渡韓調査で面談できた生存者のほとんどは「元留学生」であり、彼らは「日本語が話せたことで九死に一生を得た」という。しかし、震災当時の日本にいた朝鮮人の大多数は、日本語のできない出稼ぎ労働者だった。「1100の証言」の向こう側にある「圧倒的多数の無言」。事件の全容はいまだ「無言の宙」に浮いたままなのである。
 訪韓調査にあたり、地元韓国の新聞やテレビなどの協力も得られたが、新しく生存者を見つけることは困難を極めた。30年以上前とはいえ、当時すでに関東大震災から60年もたっていた。20歳だった人が80歳。今でこそ韓国にも元気な80代は多いが、当時としては明らかに「遅すぎた」調査だった。

日韓政府の責任
 もちろん、西崎さんたち以前にも、この問題に取り組んだ大勢の人々がいた。なかでも1963年にみすず書房から出版された『現代史資料6 関東大震災朝鮮人』(姜徳相・琴秉洞編)は、もっとも先駆的かつ包括的な資料集であり、その範囲は当時の電報や公文書、言論機関の報道や議会での答弁、さらに一般人の目撃証言まで多岐にわたる。
 全646ページの重厚な資料集からは、事件の全容を明らかにしようとする編者たちの必死の思いと、しかしながら肝心のものが出てこない苛立ちと悔しさを感じる。
 「軍関係の公文書は、敗戦時に多くが焼却されてしまいました。だから、虐殺事件の実態は明らかにされないのです。ただ、どこかに眠っている可能性はあります。役人というのは、いざという時のために、こっそり保管する癖があるのです」
 だからこそ、西崎さんは日本政府に対しても、事件の真相究明を求めてきた。政府が自らの責任として真相究明に当たらない限り、事件の全容は明らかにされない。そしてその「不明」が「新たな流言」(「歴史修正主義」など)や「新たな隠滅」(教科書からの削除など)を生み出していく。
 ところで、震災時の虐殺事件では、朝鮮人だけでなく中国人も犠牲になっている。こちらは、中国人が外国人であったために外交問題となり、不完全ながらも調査が行われ、外交文書も残された。ところが、朝鮮は日本に「併合」されており、外交的に抗議する主体は失われていた。殺された朝鮮人は、当時はすべて「日本国籍者」だったのだ。
 かつて生存者たちは、訪韓した西崎さんたちに、こんな風にも言ったという。
 「韓国は日本の属国であったから。いくら殺しても、それを処罰する存在がなかった。中国人は大きな国が(背後に)あるからできない」(羅祥允さん・女子美大留学中に被災)
 「国がなければ個人もなし。国がないから虐殺される運命にある。[略]強い独立国家を作らなければならない。鎮魂祭もいいけど、強い国の国民にならなければ」(崔承萬さん・東京朝鮮基督教会館総務職の際に被災)
 しかし、現在の韓国でも、例えば「従軍慰安婦問題」などが、まるで「政治カード」のように利用される一方で、関東大震災朝鮮人虐殺についてはほとんど話題にならない。どうしてなのか?
 それは、当事者がいないからだ。「従軍慰安婦問題」が政府間合意にまで発展したのは、当事者が名乗り出て、まずは自国政府の怠慢を追求したことによる。日本政府と交渉しない韓国政府の責任を裁判に訴えたのだ。韓国政府は裁判所の命令で日本政府と交渉をせざるを得なくなった。決して自発的ではなく、被害者と支援団体に動かされたのである。
 でも、関東大震災の場合は、その被害者が名乗り出ることはできない。殺された人々の全体数も、それがどこの誰であったかも、今日まで明らかにされていないのだ。

告発よりも共感を
 「今も韓国の人から『祖父の遺骨を探せないか』という問い合わせがあります。そういう時が一番辛い。何もしてあげられないのです」
 西崎さんは話の最後に、とても悲しそうな顔で、そう言った。
 目の前には荒川があり、本のカバーにある風景が広がっていた。かつて西崎さんがそこでサッカーをする少年だったように、今も地域の人々にとって河川敷は憩いの場となっている。犬の散歩をする人々を見ながら、祖父の遺骨を探しているという同世代の韓国人のことを考えた。
 当初、この本のカバー写真は白黒だったという。それをカラーに変えようと言ったのは、手弁当で編集を手伝ってくれた、西崎さんの大学時代の仲間たちだった。
 「長年市民運動をやってきて思ったのは、告発することでは人は変わらないということです。むしろ人間として共感できる部分から語りかけることで、人の心は動くのではないか。そんなことを皆で話しながら、写真を選んだのです」
 仲間の1人は在日韓国人だった。彼は言ったそうだ。
 「俺がその事件を体験したとしたら、最後に目に映ったのが空と草原だったと思う」
 それぞれの祖父の代に起きた、あまりにも悲しい出来事を記録する本のカバーに、西崎さんと仲間たちは美しい東京の青空の写真を選んだ。
 「告発よりも共感を」――西崎さんは、こうも語る
 「私の父方の祖父は関東大震災時に東京下町の日暮里で、路面電車(東京市電)の運転手をしていました。祖父から地震と火事の恐ろしさは何度も聞きましたが、“朝鮮人虐殺”のことは聞いたことがありません。目立つことが大好きな祖父の性格を考えると、おそらく在郷軍人として自警団に参加したはずです。もしかしたら虐殺の当事者かもしれません。だから、私はそもそも“告発する側”になど立てないと思うのです」
 私(筆者)の祖父も東京の人だった。若い頃に愛知県に移り住んで世帯をもったと聞いていた。
 今回のことで、あらためて戸籍謄本を見てみたら、明治30年(1897年)東京市神田区佐柄木町(現・千代田区神田淡路町)生まれ、大正12年(1923年)に愛知県で婚姻届が出ている。どうやら、ギリギリで東京にはいなかったようだが、もしいたら、年齢的には真っ先に自警団に招集されていたと思う。
 私たちの祖父だったかもしれない虐殺の当事者たち。しかし、彼らもまた沈黙したままだった。1100の証言の中に、彼ら自身の声はまったく登場してこない。
 つまり、この証言集は直接の被害者だけでなく、直接の加害者の証言も欠いている。第3者による目撃証言という、事件にとって最も有効な「証拠」が集められた本なのである。
 重い証言集だけれど、最後まで読み進めることができた。読み続けるのが辛くならなかったのは、むごたらしい描写の隙間に、多数の「正直で働き者の朝鮮人」や、それをかくまう「心優しい日本人」が登場するためだ。狂気の大虐殺が進行する中にあっても、人間同士の信頼関係を大切に頑張れた人々は数多くいた。その健気な姿に、西崎さんや編集に関わった皆さんの祈るような思いが重なる。この証言集には「希望」がある。

韓国でする1人グルメ その22 懐かしい食堂 チャガルチの麦飯屋さん

 

 この夏、仕事で欧州にしばらく滞在していた。豪勢な食事よりも、普通のチーズとサラミ、新鮮なラデュッシュ、そこにガーリック漬けのオリーブと手軽なお値段のワインがあれば満足。もうそれでいい。白いご飯がなくても別に困らない。私にとって欧州は滞在しやすい国だ。
 街も合理的だ。道路が狭いから自動車も小さいし、その小さい車もさらなる弱者である歩行者に道を譲る。信号がなくても秩序が守られる。人々は一生懸命生きてる。そして街は美しい。中世の石畳がしっかり保存され、風景は統一性をもっている。さすが世界中の人々が賞賛する一級の観光地。素晴らしい。
 ところが、時折、無性に韓国が懐かしくなった。韓国というより、アジアだろうか。欧州にはないものが、我々のアジアにはある。

 韓国に戻り、仕事で釜山に行った。南浦洞で用事を終えたらチャガルチ市場に行って昼食を食べよう、と朝から決めていた。チャガルチ市場は韓国有数の水産市場であり、新鮮な魚をその場で刺し身やメウンタンにしてくれる。野趣あふれる食べ方が市場の喧騒とセットで、外国人にも人気の観光地だ。これまで取材で何度も訪れたし、プライベートで食事したこともある。でも、私が昼食にと思ったのは魚介類ではなかった。
 南浦洞のBIFF広場の前の信号を渡り、チャガルチ市場方面に行く。この付近は昔も今も変わらない。 日が昇る前に一仕事終えた街は、昼の気だるさがあたりを覆っている。

 たしかこの辺だ。市場の手前の狭いバス通りを左に折れて少し歩く。あった。「ポリパブ」という小さな看板。嬉しかった。 韓国では1年前に来た店すら、探すことができないこともあるから。「ポリパブ」とは麦飯という意味だ。 ナムルやキムチを麦ごはんにのせて、テンジャンチゲをぶっかけて食べる釜山式。優しい味は今も昔も変わらない。
 

 
 この店に初めて来たのは今から20年ぐらい前だろうか。早朝のセリ市で知り合った、 市場の「ガードマン」が教えてくれた。見上げるほど大きな身体は、まるで山のようだった。彼は日本の相撲部屋にいたといい、とても上手な日本語を話した。
「日本語はうまくなったけど、相撲はダメだったよ。だから今は市場の用心棒」
市場は怖い場所だ、若い女性(当時)が1人で来るような所ではない、と彼は言った。
 麦飯を食べながら、人々を眺めていた。韓国の旅の思い出は、いつも「この人たち」との出会いだった。人懐こくて、世話好きな人々。欧州ではなかなか出会えない、彼らがこそが、この国の旅の魅力だったのだとあらためて思った。

ある先輩の話

気づいたら在韓25年。まわりがほとんど後輩になった今、先輩の存在はとても貴重だ。
そんな大先輩の1人から電話があった。「高級果物」をたくさんもらったけど食べるかと。先輩は一人暮らし。いつもおすそ分けをいただいている。

果物をもらいに待ち合わせのデパートのカフェに行く。一足先についた先輩はすでにあずき氷を注文していた。ニコニコしながら食べている70代の白髪のおじいちゃん、韓国ではよくある風景だ。
「よければどうぞ」と先輩はスプーンを指さしたけど(韓国では一つのかき氷にスプーンが2つ)、さすがに日本人同士でそれは厳しいかなと辞退した。

家が近いこともあり、ちょくちょくご飯を一緒に食べたりお酒を飲んだりもする。日韓関係にまつわる話は、ここでどっぷり暮らした人でないと分かり合えないこともあるし、さらにもっと上の世代の訃報が多くなった今、過去を語りあえる人も限られてくる。

ところで昨日、あれっと思ったのは、先輩がいつもと違う話をしたからだ。それはなんというか、大阪の原風景のような話だ。

1941年生まれの先輩は、終戦とともに九州の疎開先から大阪に戻った。朝鮮戦争の頃は、近所の子供たちと一緒に鉄くずを集めてお小遣いにしていたという。まさに開高健の『三文オペラ』の世界だ。
「僕らの鉄くずを買ってくれたのは、もっぱら朝鮮の男たちだった」

これは「韓国離れできない」先輩の、原体験なのかもしれない。その男たちの強靭な肉体が見えるような感じがした。
先輩は記憶の中の彼らの匂いなども語ったけど、私の中ではなぜか筋肉のイメージが広がった。ところで、先輩が彼らの肉体について覚えているのは、別のことだった。
「彼らはみな首の後に紅い斑点があった」
 紅い斑点とは? 私がお灸か針などの民間療法ですかと言ったら、先輩は少し笑って否定した。
「肝臓だな、今思うにあれば」

さらにこの日の先輩は、ふだんはめったにしない小さな孫の話をした。
「子供って重いのだね」

こんなことをブログに書いておこうと思ったのは、ポリタスで読んだ高橋源一郎さんのエッセイのせいだ。ポリタスの試みは本当にすごいといつも思っているのだけれど、今回の特集ではみんなが賞賛する平田オリザさんの原稿に非常に違和感をもっていた。
もやもやしていたものが、高橋源一郎さんの原稿で少しとんだ。
http://politas.jp/features/8/article/452

犬と人と戦争の悲しみ

 私の母は釜山の街が大好きだ。特に夜になると一斉にガス灯をともす南浦洞あたりの露店が、幼い頃を思い出させるという。

 私の故郷の街には戦争中に作られた遊郭があり、母の実家はその入口付近で商店を営んでいた。市電の終点にあったその街は「お上の政策」で作られたため、当時としては珍しく下水道などもひかれ、かなり近代的だったという。呉服屋、下駄屋、薬屋などを軒を並べ、昼夜を問わずにぎやかだったその街は、正月前にあると露店が並び、いっそうのにぎわいを見せた。ガス灯にくしやかんざしがキラキラ光ってとてもきれいだったと母は言う。それは祖父の商店に出入りしていた美しい芸者さんたちとともに、幼い少女には格別のあこがれだっただろう。 

 徴発されたエス

 ところが戦争がひどくなると、芸者さんたちも近くの軍需工場で働かされるようになり、祖父は使えなくなったオート三輪の代わりに犬を一匹買ってきた。

 エスは大きなメスのシェパードで、毎日祖父と一緒に往復4時間の道を仕入れにでかけていた。「エスはよく荷を引いた」――祖父は言っていたそうだ。

 やがて戦争はもっとひどくなり、ついにエスも徴発されてしまった。「毛皮をとるため」という説明があったという。母の実家はエスがいないとそれこそ商売にならなかったが、軍の命令だから仕方がない。祖父は泣く泣く指定の警察署までエスを連れて行った。それから何日かして、小学校に入ったばかりの母と叔父は祖母に連れられてエスに会いに行った。途中の店ではんぺんを一枚買ったそうだ。

 警察署の一角には天井まで届くような大きな檻があって、その中には犬が幾重にも積み込まれていた。折り重なる犬たちの下の方は既に重圧に押しつぶされて息絶えており、上の方の犬も吠えることなく静かに溶けていくのを待っていた。エスはその中間でまだ生きていて、母たちの姿をすぐ認めたという。買っていたはんぺんを一枚やるとおいしそうに食べたそうだ。それがエスとの別れだった。

 犬を埋めた人の心

 韓国に住むようになり、「終戦記念日」は知らず知らずのうちに「8.15光復節」として意識されるようになった。圧政的な加害者としての日本は、残虐であり破廉恥であり、まぎれもなく断罪の対象である。テレビの8.15特番などで再現されるシーンの数々に、日本人としての私は先人たちの愚行に怒りと羞恥でいたたまれなくなる。先日、日本大使館の前で元従軍慰安婦のハルモニに土下座して謝った日本人女性がいたが、いたたまれなさから出た突発的行為としては私にも十分理解できる。私たちの世代は加害者との歴史をあまりに知らなかった。

 ところで先日読んだ朝鮮戦争についての本に犬の話が2件載っていた。一つは戦禍の中、避難先に連れて行けずに死なせてしまった犬を、泣きながら土に埋めた人の話。そしてもう一つはソウルを占領した人民軍に犬を徴発される話。犬の名前はたしかベスだった。人民軍と韓国軍の熾烈な戦い、どちらに責任があるかの政治論議はもちろん必要だ。そしてあらゆる戦争につきまとう謝罪と賠償の問題は、具体的な反省という意味でも、今後の関係性のためにも極めて重要だ。

 でも今日は、犬を埋めた人の悲しみに私は泣きたい。戦争下の悲しい個人的体験は加害国・被害国、戦勝国・敗戦国の違いをこえて共有される。母とベスの主人は同じように犬を徴発された悲しみをもつ、「悲しみの同志」である。(1997年8月)

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これは18年前、在日韓国人団体が発行する「統一日報」のコラムに書いたもの。データはないのだけど、手元に新聞のコピーがあったので、そのまま打ち直してみた。
この後に日韓関係では韓流ブーム、南北では首脳会談があり、時代は前に動いたと言われていた。

なぜ韓国で? マーズ(MERS)感染拡大の背景について

昨年のセウォル号に続き、韓国の市民生活を直撃したこの問題。学校は休校、行事は延期。昨年、修学旅行や遠足をキャンセルした学校は、今年もまた同じような状況になっている。
「子供たちは可愛そうだけど…」、仕方がない。

ただ、報道されるほど市民生活が萎縮しているわけではない。マスクをしている人が登場する画面の多くは、そこを切り取って報道しているわけであり、私が見た目ではソウル市内に限れば約1割ほどかなと思う。さらに、近づいてみると、その多くは「外国人観光客」であることがわかる。今回は感染者が香港・中国を旅行していたこともあり、中華圏での警戒心は大きい。韓国旅行のキャンセルも7万人と発表されたが、その多くは中国・香港・台湾からの観光客が占める。

韓国の人がマスクをしていない(はずした)のは、マーズの感染経路がほぼ明らかになったことが大きい。現状は「院内感染」であり、感染したのも「病院スタッフ」「同室患者」「見舞い客」など極めて近くにいた人々のほとんど。うち重篤化したり亡くなったのは闘病中の高齢者等であり、その意味では当初心配された「変異」ではないようだ。
すでに政府保険当局からも「ウィルスの変異はない」ことも発表されており、つまり、風邪やインフルエンザと同様の対策をすれば感染はしない。ということで、一時のパニックは収まった。これまで韓国メディアの報道や政府発表に釘付け状態だった私にも、少し心の余裕ができた。

そこで2点ほど気になることを書いておきたい。まずは中東で流行している病気がどうして韓国に入ってきたか。もう一つはなぜ韓国で感染が拡大してしまったのかということだ。

一つ目の点に関しては、韓国と中東との関係が日本人が思っている以上に強いこと。日本企業はこのエリアでいつのまにか遅れをとってしまっている現状がある。これに関しては、イスラム学者である池内恵氏の「MERS(中東呼吸器症候群)がなぜ韓国で?」の説明がとてもいい。池内氏自身の留学時代のエピソードなどを含めて、韓国人・韓国企業の強さがわかる。
http://ikeuchisatoshi.com/mers%EF%BC%88%E4%B8%AD%E6%9D%B1%E5%91%BC%E5%90%B8%E5%99%A8%E7%97%87%E5%80%99%E7%BE%A4%EF%BC%89%E3%81%8C%E3%81%AA%E3%81%9C%E9%9F%93%E5%9B%BD%E3%81%A7%EF%BC%9F/

さらに付け加えるのなら、現在の韓国人・企業の中東進出には「前史」がある。70~80年代、韓国がまだ貧しかった時代、多くの韓国人労働者が砂漠の建設現場に派遣されていた。現在、公開中の韓国映画『国際市場で会いましょう』もそこにふれられている。
一方で、中東との強い絆のわりには、MERSへの対策はされていなかった。もっとも、では他の国がどうだったかという点には関しては、「韓国政府だけを責められない」という専門家の意見もある。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150605-00010001-wedge-kr&p=1


反面、私がネットなどを通して心配になるのは、感染拡大の原因を「韓国人の国民性」に求める意見だ。たとえばこんな記事もある。
「韓国MERS危機は共同体の安全を考えぬ国民性から」
http://blog.dandoweb.com/?eid=186248
>>韓国の中東呼吸器症候群(MERS)流行が病院内感染の枠を超え、地域拡散の様相すら見せ始めています。この危機を生んだのは無能な役人と医療関係者、そして共同体の安全を考えぬ手前勝手な国民性にあると見えます。