ホルムズ海峡をめぐる日韓(雑感)

Xに「韓国すごい」という言葉が増える時期がある。米国とイスラエルによるイランへの攻撃、その後のホルムズ海峡閉鎖に対して、韓国政府の迅速な対応を称賛する声がよく聞かれた。

「まるで新型コロナパンデミックの頃と同じ」

よくも悪くもそう感じだ。あの時も文在寅政権の検査体制やワクチンの確保を称賛する声が日本でも上がった。日本のデジタル化の遅れは明らかだったし、政府が配布した布製マスクにはみんなが唖然とした。とはいえ、韓国の厳しい隔離と監視体制などは人権問題にもなり、隣国を一方的に称賛するばかりはよくないと思った。当時はそんなことをネットメディアなどに書いていた。

もちろん疫病も戦争も「未曾有の大惨事」だから、どんな国でもいきなり正解など見つからず試行錯誤になるのは当然だ。ただ、日韓の場合は時に注意が必要なのは、隣国政府への称賛と自国政府への批判の材料となる。まるで隣国のお手柄を、まるで鬼の首を取ったように自国政府批判に利用する。しかも事実関係には間違いがあったり、都合のいい部分だけを引用したりする。そういった雑な態度は情報の信用を低下させ、排外主義者に足元を救われることもある。

たとえば、今回の日本の出光号の件もそうだった。

「なぜ日本のタンカーはホルムズ海峡を抜けられたのか?」、「我が国の政府は何をやっているのか?」

弱いとはいえ野党が批判すれば、一部の国民の中にもそれに乗る人々が現れる。もともと政府批判のチャンスを狙っていた人々は物事を大げさにする。さらに言語の壁が無くなった今は、日本人までがそれに乗って自画自賛、韓国政府批判をする。そんな時にYTNで聞いた、ペク・スンフン教授(韓国外国語大学中東研究所)の解説はとてもよかった。

www.ytn.co.kr


日本は官民ともに中東のエキスパートがいることと、政府と民間の役割分担がうまくできていること。韓国政府はなんでも自分がやろうとしてしまう。特使派遣もいいのだが、トップ外交だけでは絶対王政のような国家ならともく、ちゃんとしたシステムをもった国家では通用しないということ。

以下はそこの部分のメモ。日本語に翻訳しておく。司会者の「韓国の船舶26隻が今もホルムズ海峡で足止めされているのに日本の船舶は通過したとのこと。これはどういうことなのか。通行料も支払わなかったと聞いている」に対しての答えだ。

(ペク・スンフン教授)
心の痛む部分ですね。韓国の外交部はよく働いていると思います。しかし、私はこう考えます。このような事態が起きた時、短期的に解決しようとしてはいけません。日本はイランと外交的に古くから多くの関係を結んでいます。日本の外務省には、イランや中東の専門家も多く配置されています。韓国の外交部がもし(この件に)適切に批判・対応するのであれば、もう少し中東関連の専門家を多く配置しなければならないと思います。
そして、そのように配置された専門家たちが以前から中東との関係を継続的に確保してきました。現在、日本がそれができている理由は2つあると考えます。1つ目は、あらかじめ準備ができており、専門家たちが配置されて活動し、関係性を作り上げてきたことです。そういった要素が、今回の局面において日本はそれなりに成功している一方で我々はできない、その違いがそこから来ているようです。
2つ目は、日本は役割分担がよくできているということです。つまり、船会社がすべきことと政府がすべきことが明確に分かれています。一方、我々は政府があらゆる事柄に介入し、特使を派遣して現政権がすべてを解決しようとする傾向がありますが、そうした方法がうまくいくとは限りません。もちろん、ペルシャ湾岸の君主国にはそれが通じる面もあります。しかし、イランやイラクのように絶対君主制ではない国や、システムがより多層的な国々では、そのような方法で進めるのは難しい部分があるのです。
したがって、特使外交自体はすべて良かったのですが、もし我々が10年後、20年後に同じような事件が起きた際、日本と同じような成果を出そうと考えるのであれば、専門家を多く育てなければなりません。様々な省庁の内部や、国の研究機関はたくさんありますよね? そうした場所に中東専門家を多く配置して準備をしておき、現地の研究機関と継続的にネットワークを構築していく必要があります。日本はそれを非常に行き届かせています。それが必要なことの1つ目です。
2つ目は役割分担です。今、外交部や政府があらゆることや交渉を行っているとしても、状況が危険かどうか、私たちが現地でビジネスを継続できるかどうかは、船会社が決めることなのです。そして、もし通行料を支払わないとしても、通行料を迂回する決済などを行うのは国家ではなく船会社です。つまり、日本はそのような責任の所在を分けるのが上手です。「我々は法的措置を講じただけであり、そこでお金がどう支払われるかは我々の知る所ではない」といったスタンスです。
そういったやり方をしてこそ、グッドコップ・バッドコップ(良い役と悪い役)のような役割分担ができ、交渉力が高まり、外交部や政府の身動きが取れる範囲も広がるのです。日本はそのような体制が非常によく整っているからこそ、このような成果が出ていると言えます。韓国ができないというわけではなく、韓国もこれまで構築してきた範囲内では非常に成功しています。しかし、日本と比較するとそうした部分が不足しており、拡充されていけば、韓国も10年後、20年後に同じような事件が起きた時に日本と同じような成果を出せるのではないかと、私はそう考えています。

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韓国の友人は、韓国の地域研究者、特に中東エキスパートが少なさを問題にしていた。たしかに大学にも民間のシンクタンクにも地域研究者は少ないという。

逆に日本では「民間企はがしっかりしているのに、政府はそれに頼っているだけ」という意見も多く、私もハラハラすることが多かったけど、隣国からは「役割分担」と見えているようで、それは大切だと思う。

 

ただ、今後はそれではすまないと思う。戦争が長引かなくても、高油価状況は続き、産業への影響は残るだろう。さらに近年は温暖化による自然災害も多い。しわ寄せがいくのは小さな会社、弱い個人だ。ここは民間に頼れない。政府が前に出て仕切らなければいけない。今の状況では韓国のほうがうまくやれる土台が整っている。デジタル化にしろ個人情報の一元管理にしろ、管理体制は非常に力を発揮するだろうし、部分的には計画経済への移行も可能だろう。

NHKスペシャル「月の町タルトンネ ーソウル最後のスラム」の感想

NHKスペシャル「月の町タルトンネ ーソウル最後のスラム」を見た。韓国で暮らしていると、ニュースなどでも見慣れた感がある九龍マウルだけど、Nスペはカメラワークもすごいし、これはドキュメンタリー作品としても秀悦なんだろうと思う。(個人的な思い入れが強すぎて、なかなか客観的に見れないのですが)。
インタビューで出てくる住民の言葉もまるで「詩」のようだった。取材していてっもよく感じるのだけど、韓国の人々の言葉は詩的というか、そのまま使える言葉が多い。これはメディアとしては、本当にありがたいことだ。撮影者もディレクターも韓国の人の名前が入っていたけど(趙さんて、あの趙さん?)、スタッフの中には言葉にも街の風景にもとても精通した人がいるんだろうなと思った。
韓国のニュースメディアではこの街をめぐっては不動産開発の話が中心で、住民も地主もアンタッチャブルな存在になっていた。そういえば番組の中で、全ての土地が公社所有になったと言っていた。貪欲地主連合はどういう取引で落ち着いたのだろう?彼らは散々住民を利用してきた。
ただ、ちょっと気になったのは、この街について「タルトンネは」と大きな主語で語られていたこと。タルトンネと言ってもいろいろある(あった)わけで、例えばドラマだと皆が大好きな『マイ・ディアミスターわたしのおじさん』、映画だと『子猫をお願い』とか。韓国の人はそんなこと知っているからいいけど、日本の人はどんなふうに見るのかなと。少しだけ気になった。
私が韓国で暮らし始めた1990年代には、ソウルのいたるところにタルトンネがあって、とても身近な存在だった。日本から来た留学生なども住んでいたし。
タルトンネへは、よく犬の写真を撮りに行っていた。道が狭くて車が入りにくいタルトンネは犬たちの天国だった。その頃の韓国は犬が放し飼いだったから。その代わり猫はなぜかつないであったりもしていた。
「犬はちゃんと家に帰るけど、猫はどこかに行っちゃうから」
わかるような、わからない説明を聞いた。
放し飼いだった犬のほとんどは「トンケ」と呼ばれる雑種で、本当に雑多な顔があった。それが面白かったので写真に撮っていた。珍島犬っぽい大きめのもいたけど、とくに目立ったのは脚の短い短毛の小型犬だった、
「コリアン・ショート・レッグ」
友人の米国人はそう名付けて嫌っていた。(彼は犬嫌いを自称していたが、食べるのは好きだった。今思うと野蛮な男だった)
そいつが韓国を離れた1990年代半ばから、ソウルの街のトンケは減っていき、さらに都市再開発でタルトンネも消えていった。犬はペットショップで飼われる室内犬に変わった。私の犬の写真も、この2014年の九龍マウルが最後になった。

kangazi20.hatenadiary.org

韓国にて雑感2026

日本と韓国で製造業やっている友人がいるので、前回の新型コロナパンデミックもそうだったし、今回のエネルギー危機などもいろいろリアルだなあと思う話を聞いている。たとえば日本は接着剤が目詰まりで手に入らないから、韓国からその分を回すとか。会社内での「調達」に忙しい。コロナではマスク、今回はナフサが早々と禁輸項目になったけど、それ以外はまだ大丈夫のよう。
ただ思うのは「淡々としているな」ということ。
「まあこれがなくても日々大変なことばかりだから…」
話を聞いていると、世界情勢や日韓関係、さらに韓国の場合は法規制がコロコロ変わるし、それでも続けてきた人はすごいなと思う。
彼の当初のミッションはとにかく父親の会社を継ぐことだった。その次は新しい素材を開発すること。いくつか業界の特許をとった。せっかく理系の大学を出たらからという父親の期待に添えてよかったと。その後に会社を大きくして、従業員を増やす。会社を維持することは父親の期待に添うという以上に、従業員とその家族の生活を守ることにミッションが変化した。
ただし韓国の場合は中小企業は人気がないので、もっぱら一生懸命やってくれるのは外国人労働者だと言っていた。彼も彼らを守りたいという。
誰がどう考えても、これからしばらく日韓も世界も大変な時が続く。韓国は国家の管理体制が強く危機対応が迅速だけど、日本は企業が独自にやらなければいけないことが多い。
日韓を行き来していると、つい新型コロナの頃の両国の違いが再現されているような錯覚に陥るけど、初動はやはり韓国政府は早いなと思う。プロパガンダもうまいし。これは70年あまりの準戦時体制と40周年の迎えた民主化社会の融合のたまもの。その両者(統制と管理、透明性と情報公開)をうまく結合させようとしたのが、文在寅政権の危機管理体制だった。さて今回、それはどう更新されるのだろうか。

 

追記)

一昨日、釜山から東京に移動したのですが、飛行機の中で隣に座ったオジサン2人があまりにも静かでちょっと驚いた。喋らないだけでなく、スマホを見るとか本を読むなどもしない。じっとしている。日本人にしても静かすぎると思ったら着陸間際に韓国語で短い会話を。

「あらら韓国の人なんだ」と驚いたのですが、その後も静かでいわゆる御通夜みたい。飛行機では本当にお通夜の人と乗り合わせることもあるけど、それは服装でわかるから彼らは違うと思う。ただあまりにも沈痛な表情とあの無言な感じは、ビジネス上のそうとう深刻な案件を抱えているのかも。とにかく無言なので、聞き耳を立てることもできない。この時期は取引先との間で沈痛な案件が抱える人は増えるんだろうなと思う。(この2人はそうとは限らないけど、見た目からは釜山の中小企業の社長と年長社員という風情だった。年配の人のほうが菓子折り一つ持っていた)

 

「38度線の北」 ー (横浜美術館「いつもとなりにいるから 日本と韓国、アートの80年」-3)

38度線の北、GoogleMapに「朝鮮民主主義人民共和国」と入力しても、地図には「北朝鮮」と表記される。

横浜美術館の展示はどれも素晴らしいのだけど、自分が初っ端であれほど動揺した理由はわかっている。この長年もやもやしていたことを言い当てられた気がしたからだ。

それは「38度線の北」のことである。

この四半世紀、旅行書の仕事を生業としながら、韓国全土を歩いていた。新型コロナパンデミックで仕事が途切れたが、ありがたいことに日本の出版社から声をかけてもらって韓国紹介の本を作った。『現代韓国の超基本』(朝日新聞出版)、『地図でスッと頭に入る韓国』(昭文社)など。

いずれも「入門書」的なもので、気候・風土など韓国の基本情報と地図がたくさん入るのだが、それを見ながら気になったのは(仕方がないのだが)、38度線より北がいきなり「白地図」になってしまうことだ。山岳地帯も平原もつながっているのに、それは軍事境界線で突然切断されてしまう。

「江原道は北朝鮮にもあるんですよ。道が南北に分断されてしまったのです」

それを編集者に話したら驚いていた。解放後に朝鮮半島が南北に分断されていたことは知っていたけど、自治体が2つに分かれたことまでは知らなかったと。

「江原道だけでなく京畿道も分断されました。北朝鮮は京畿道の部分を黄海南道に編入したため、今の北朝鮮に京畿道という行政区分はありませんが。でも江原道は今も半分が北朝鮮にあるのです」

そこで私は江原道の紹介であえて次のように書いた。韓国好きな読者に、南北分断の痛みを伝えたかったからだ。

江原道

軍事境界線で南北に分断された。忍耐強く寡黙な人が多い。スキーリゾートが有名で冬季オリンピックも開催。

 

朝鮮戦争で南北分断
  江原道は忍耐強く寡黙な人が多いと言われている。朝鮮半島の背骨ともいわれる太白山脈が縦断し、雄大な山々と東海(日本海)に面した海岸線が織りなす絶景。江原道は自然環境が豊かな観光地としても名高いが、現在は北朝鮮と韓国に分断されている。
 江原道は高麗時代から存在する古い行政区域だった。その名前は江陵の「江」と原州の「原」に由来する。

 1950年に朝鮮戦争が勃発すると、江原道は最後まで最前線であり続け、南北双方で多くの道民が犠牲者となった。1953年に休戦協定が結ばれたが、江原道の分断は解消されず、家族や親族が南北に引き裂かれ、軍事境界線付近では居住が制限された。分断後の道庁所在地は韓国側では春川市、北朝鮮側では元山市となっている。

字数制限ギリギリ、何度も書き直した。

『三八度線の北』

「38度線の北」という言葉は、ある世代、ある人々には「痛恨の記憶」を蘇らせる。1959年に新日本出版社から出された『三八度線の北』(寺尾五郎著)は当時としてはベストセラーとなった。左派が強かった時代、社会主義体制を礼賛する書籍は他にもあったが、この本は特別だった。

ここに描かれている北朝鮮の姿を信じて、北朝鮮への帰国を決めた在日朝鮮人やその妻(日本人)が少なくなかったからだ。後に脱北することになった帰国者たちのインタビューや手記にも、この『三八度線の北』は頻繁に登場する。

「北朝鮮の体制を支持する同胞ではなく、日本人が書いたものでしたから客観的なのだろうと思った」とか。胸が締め付けられる。ずっと北朝鮮の人権問題に取り組んでいる友人は、日本の左翼の原罪という言い方をしていた。 

1945年の日本の敗戦時、日本国内には約200万人の朝鮮半島出身者がいた。そのうち140万人余りは1年以内に故郷に引き揚げていった。すでに日本に生活基盤のあった人々は日本に残り、家族の生活を守りながら帰国のタイミングを計っていた。ところが祖国は米ソによって分断されたまま、ついに戦火を交えることになる。
時同じくして日本政府は、朝鮮半島出身者の日本国籍を一方的に剥奪してしまう。「無国籍状態」となった人々は、想像を絶するような差別に苦しむことになる。

その差別と貧困から抜け出すため、日本から北朝鮮に向かった人々は1959年から1984年までに9万3340人にもなる’。彼らの「帰国」を支持した日本人も多かった。みんなは知っていたのだろうか? 実際の北朝鮮のことを。その頃、北朝鮮政府に招かれた「名誉ある日本人」らは、彼らが見せられたものをどう感じていたのだろう。

そんなことをずっと考えていた時に、 横浜美術館でふいにあの絵を見てしまったのだ。曺良奎が北朝鮮に帰国したのは1960年だった。


韓国についてはこの四半世紀ですっかり多くの人に知られることになった。おそらく今の日本では最も人気のある国の1つだろう。でも、その北については真っ白だ。地図を埋めていきたいと思った。 

 

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横浜美術館「いつもとなりにいるから 日本と韓国、アートの80年」-2

 ナムジュン・パイク(1932~2006)はあまりに有名だし、日韓だけでなく世界中の美術館の「現代美術の回顧展」的なものでは必ず登場する。一昨年、ベルリンでもジョン・ケージやヨゼフ・ボイスに並んで彼やオノ・ヨーコの作品を見た。

 なので「すみませんすみません、今回はもっと他のが見たいので…」と初日はスルーしたものの、家に帰って図録を見たら、こちらもやはりコンセプトが斬新。周辺の人との交流の記録が中心だった。

2章 ナムジュン・パイクと日本のアーティスト

現在、世界的なビデオ・アーティストとして知られるナムジュン・パイク(白南準)は、日本の植民地時代の朝鮮半島に生まれ、1950年に来日して、東京大学の美学美術史学科に学びました。その後ドイツ、そしてアメリカに渡り活躍しますが、パイクは日本語が堪能で、生涯にわたって日本のアーティストやクリエイターたちと親交を結びました。ここでは、日韓国交正常化の時期を前後して、同時代の日本の美術界と特異な立ち位置で関わったナムジュン・パイクを中心に、日韓のアーティストたちの繋がりを紹介します。(横浜美術館HPより)

yokohama.art.museum

 特に作家として久保田成子さんが大きくとりあげられているのが<正直>嬉しかった。 というのは、韓国が一時期からあまりも「白南準」を英雄にしてしまったため、その周辺が切りとられてしまっていたから。もちろん彼がすごいのは間違いないのだけど、あまりにも民族主義的な形でトリーミングされてしまい、さらに彼が亡くなってからの一連の騒動(作品は国家のものか遺族のものか)は、パイクや久保田の思想とはまったく相容れず、報道に接するのもうんざりするものだっからた。そもそも彼らのアートは国家主義の殿堂入りを拒否するものだったはず。

 国を挙げての英雄づくりに(幼児用の読本なども出ていた)、「あっちがを白南準ならこっちは久保田成子」なんて人は日本にはいないわけで、かといって韓国で彼女が無視されている(ちゃんと評価されていない)ような状態は<正直>悔しかった。(ここに私自身の対抗ナショナリズムや対抗フェミニズム的なものを発見して、それにもうんざり…)

 そんなことで2006年以降、私のパイクへの関心は完全に冷え込んでしまい、つられて韓国の現代美術界隈そのものからも足が遠ざかったしまった。光州ビエンナーレも行かなくなったし、時々、国立現代美術館に立ち寄るていど。でもあれから20年、私がふてくされている間にも世の中はちゃんと前に進んでいて、2021年には日本の国立国際美術館で「Viva Video! 久保田成子展」が開かれた。

 久保田成子の個展は30年ぶりだったという。そこに出ていた「ブロークン・ダイアリー」が横浜でも見られるという。幸い美術館でビデオをじっくり見ている人は少なかったので(映像作品をすべて見ると9時間以上かかるそう)、今回はじっくり見られるだろうと思った。

 「ブロークン・ダイアリー」(1984)は久保田成子が34年ぶりの夫の里帰りを記録したもの。墓参りのシーンなども興味深いのだけれど、印象的だったのは民俗村での農楽の部分が妙に長かったこと。時代的にはサムルノリと重なるけど、やはりあの音は刺激的であり、長く収録したかったのだろうなと。

 そのナムジュン・パイクの里帰りについて、シンポジウムで李禹煥との秘話を聞けたのもよかった(つくづくすごい展覧会だ…)。いずれ李美那さんが本に書かれるのでしょうし、そこにはもっといろいろな事実が明かされるのでしょう。それほど民主化以前の韓国、日韓関係は大変だった。

 またシンポジウムで佐藤小百合さんの「ディアスポラとしてのナムジュン・パイク―内破する芸術、旅」という発表が聞けたのもラッキーだった。パイクはディアスポラとして語られることは少なく、自らも「ナグネ」(旅人)と言っていた。つまり彼にとって大切だったのはルーツ(roots)ではなく、ルート(route)。しかも複数のルート(道、通路)を持っていたということ。ああ、なるほど。私たちは1つのルーツ(民族とか国家とか家族)にこだわるけど、実はそれよりも今の自分に至るルートこそが大切なのだろうと、そんなことを思ったり。
 その他にもいろいいろ思ったことがあるのですが、また後日。しかし80年という区切りはいいなと思う。東京の国立博物館の「日韓国交正常化60周年記念 韓国美術の玉手箱 ― 国立中央博物館の所蔵品をむかえて―」と比べても、横浜美術館の「80年」は意味深い。

www.nmao.go.jp

横浜美術館「いつもとなりにいるから 日本と韓国、アートの80年」-1



8年ぶりにブログを更新。まずはこの話から。ミヨンちゃんの企画だからと、軽い気持ちで行った横浜美術館の「いつもとなりにいるから 日本と韓国、アートの80年」。
すごすぎて卒倒しそうになった。もう感動しました。

せっかくならとシンポジウムがある2月7日を選んだのですが、そのお話も全部聞いたせいで時間が全く足らず、図録を購入。それで予習をして、翌8日にもう一回。日韓の現代美術の代名詞ともいえる「もの派」や「パイク」もいいのですが、ここでは北朝鮮(展覧会では朝鮮民主主義人民共和国、もしくは共和国と表記※)へ帰国した人々に関する展示が予想外というか、事前に知らなかったので不意をつかれた感じ。今までになかったコンセプト、素晴らしい、圧巻です! ミヨンちゃん(と言ったらいけないね)、これをやりきった学芸員の日比野さん、すごいです。(お父さんに見せてあげたかった…。すごいぞ、あなたの娘は)

 「もの派」も韓国の展覧会では「ゴロッと」みたいな置かれ方(それでいいのですが)が主流だけど、今回のような李禹煥らの交流・交友の細かい展示は、それはそれで大変見どころがありました。ピンクの3連画(『風景Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ』(1968/2015)がなぜ2枚だったのかは気になったけどーーと初日にツイッターに書いたのだけど、その疑問はすぐに解決。

 シンポジウムも大変よかったです。横浜では展示できて、韓国の国立では展示できないものがある(共同企画にもかかわらず)。その「展示できない」ことが記録されて、それが次回にはどう変化するのか。登壇者や学芸員の熱意(悔しさも)が伝わってきて、「アートの現場」感がすごかった。

 

1章 はざまに―在日コリアンの視点 

 

1945年の日本の敗戦により、朝鮮半島は日本の植民地支配から解放されます。しかし、それとほぼ同時に北側をソ連軍、南側を米軍が統治することになり、1950年に起きた朝鮮戦争を経て、半島は大韓民国朝鮮民主主義人民共和国に分断されました。そして、日本と大韓民国の国交が正常化する1965年までの約20年間、日本と朝鮮半島には正式な国交が結ばれていない時期が続きました。展覧会の最初の章では、日本と朝鮮半島の「はざま」にいた在日コリアンを軸に、この20年間をたどります。横浜美術館HPより)

 

 とにかく驚いたのは、冒頭に現れる在日コリアンの作品群。まさに意表をつかれたわけです。こういう日韓の記念行事では常に「別冊」、もっとひどくいえば「付録」みたいな扱われ方をしてきた場所からスタートする潔さ。後世に残る展覧会は常に「宣言」があるわけですが、まさにそれだなと思いました。

 「宣言」としての第1章の冒頭を飾るのが曺良奎(チョヤンギュ 1928~没年不詳)というのも偶然ではないわけです。彼が「日本アンデバンダン展」において、初期の参加作家であったこと。ナムジュン・パイク(1932~2006)や李禹煥(1936~)を待つことなく、すでにそこから始まっていたことが大きく可視化される。https://nihonbijyutukai.com/nichibi/ayumi/1957nian-1962nian

 

「日本アバンダン展」は松本竣介(1912-1948)の「全日本美術家に諮る」(1946)を継承するものであり、それこそ戦後に日本美術おける「宣言」だったわけで、そこに参加した曺良奎の作品。とくに冒頭の「人物」(1953年)に既視感を覚える人は多いと思います。

テキストのイラストのようです

「たしかにこういう人々がいた」

展覧会はそこから、曺良奎らが「帰国船」に乗った物語がつながっていく。彼は1960年10月に妻や子どもと朝鮮民主主義人民共和国に帰国します。

私自身の整理のために、ここに置かれていた初期の在日作家の作品リストを。この中には、韓国では展示できないものもあるそうです。

 

曺良奎(1928~?)『人物』『密閉せる倉庫』(1957)『マンホールB』

全和鳳(1909~1933)『ある日の夢(銃殺)』(1950)

白玲(1926~1997)『私も祖国へ』(1959)

韓東輝(1935~2020)『中留朝鮮人部落』(1960)

成利植(1930~)『風景』(1961)

金煕麗(1926~2007)『密航』(1961)

宋英玉(1917~1999)『隔たり(帰国船)』(1969)

 

また別の壁面には、写真家である曺智鉉(1938~2016)の作品が並べられ、1960年~1970年当時の猪飼野コリアンタウンの風景が伝えられます。なかでも『朝鮮市場』というタイトルの2つの作品は象徴的で、そこには「永住権(日韓条約にもとずく)を早く申請しよう」「死の申請<永住権>を取り消して傀儡<韓国籍>を朝鮮に直そう」という対象的な2つの横断幕が映っています。

そんなのを、いきなり見てしまった衝撃からすると、次の第2章「ナムジュン・パイクと日本のアーティスト」はホッとするというか、まあ定番ということで1日目は横目で見ながら素通りして先を急いだのですが、家に帰って図録を見てびっくり。2日目にはガッツリそちらも鑑賞して、シンポジウムで若い研究者の発表も聞いて感動してしまった。その話はまた次回。 

 

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崔吉城著『米軍慰安婦の真実』を読んで

崔吉城先生のテーマは、いつも興味のストライクゾーンに入ってくる。先に書かれた『朝鮮出身の帳場人が見た慰安婦の真実』もそうだったし、植民地における宗主国の建築物に関する比較研究もそうだ。オリジナリティのあるテーマが、独自の調査と思考で論じられていく。韓国関係の本はいささか食傷気味でもあるけど、崔先生は特別だ。いつも最優先で読み、そして考える。
この本も何度も読んで、ずっと考えている。

少年が見た米軍慰安婦の村
生まれた村が米軍慰安婦の村になった物語は、著者の幼少期の体験から始まる。好奇心旺盛な少年が新しいもの、珍しいものを、積極的に観察し記憶する。著者は幼い頃の自分に問いかけ(インタビューし)、記憶(証言)の裏付けをとっていく。一流の文化人類学者が自分自身を取材対象にして物語を再構築していく、この本の前半分は掛け値なしに面白い。
特に日本の敗戦から解放、朝鮮戦争の部分は、私自身が昨年インタビューし、まとめた「北朝鮮出身の元NATO軍軍医、ドクター・チェ」(『中くらいの友だち』第3号)とも背景を同じくする。38度線と軍事境界線は違うのだという確認は、奇しくも私自身も強調した部分である。
さらに、この物語は私の母の物語にも通じる。私の母も80歳を前に自分の記憶を一冊の小冊子にまとめたが、それは自分の生まれた街が「遊郭」になった話だった。軍の連隊が置かれて軍都となると同時に、市の一角には遊郭が、計画的に作られた。母は幼い目で見た遊郭の様子を、70年後に文章にした。日本の遊郭で暮らす少女もまた、朝鮮の慰安婦の村の少年と同じぐらいの好奇心で、街と世の中の変化を眺めていたのである。
前半はあっという間に面白く読んだのだが、後半では疑問がいろいろ出てきた。大きくは以下の2つだ・
1, 韓国人の民族感情に、対日と対米で大きな差があるのか
2, 韓国人と日本人の貞操観念の違いは、近代化の速度の差によるのか。あるいは文化的にまったく異なる素地があるのか。

1, 韓国人の民族感情に、対日と対米で大きな差があるのか
7月半ば、愛知大学オープンキャンパスで担当している「現代韓国事情」の最終回、崔吉城先生の新刊『米軍慰安婦の真実』を紹介しながら、「米軍基地村での性売買”慰安婦”に損害賠償」問題をとりあげた。「米軍慰安婦」については今年2月、韓国の国家責任を認める判決が出ている。http://japan.hani.co.kr/arti/politics/29733.html 
「日本以外の国にも「慰安婦問題」があったなんで、私はいままで知りませんでした。大変、ショックです。なぜ、知らなかったのでしょう」
女性受講者が何度も驚きを訴えた。すると、男性受講者が「それは、マスコミが偏向しているからです」と決まり文句。それに対して、「偏向というより、視聴者が関心がないことは報道しないだけでしょう。日本軍慰安婦問題は日本に関係があるけれど、米軍慰安婦問題は直接関係ないから」と、常識的な意見が出る。
ただ、「米軍慰安婦」は韓国でも長い間、大きな問題とされずにきた。日本メディアの偏向云々についてはともかく、韓国国内の問題に関しては、私が説明する必要がある。
崔吉城先生は『米軍慰安婦の真実』の中で、「対日」と「対米」のダブルスタンダードを指摘されるが、私はそこがうまく理解できない。韓国人は日本に対しては厳しく、米国に対しては甘いということがあるのだろうか?
私自身が暮らした1990年代〜2000年代の韓国は、反米運動がとても盛んだった。それあ洋泉社新書の2冊の著書にも書いた。たとえば光化門の米国牛肉輸入反対デモに2万人、ところが同じ時期の日本大使館前の慰安婦関連集会には200人というのが、日常的な風景だった。韓国人のナショナリズムは「敵」を必要とする「対抗ナショナリズム」という印象が強いが、その「敵」は状況によって相手を変えるように見える。時には「反日」、時には「反米」、また「反中国」を強く感じる時もある。それは時の政府の、政治外交上の事情が深く関係しているように思う。
慰安婦」問題についても、民族的な感情というより、政治的な便宜主義(政治外交のカード)を強く感じる。しかし、崔先生は、国連軍の性的暴行や米軍慰安婦がこれまで語られてこなかったことを問題にする。
「ここで、どうしても私に、一つの疑問がわいてくる。なぜ、明らかな犯罪である国連軍の性暴力、つまり米兵が朝鮮戦争の時にひどい性暴行をしたということは、彼らにとっての問題にならないのか。なぜ、韓国の人たちは、このことを取り上げようとしないのか」(p179)
「韓国の人たち」というのは、政府と国民の両方を指すのだろうか? 
ただ、日本軍の従軍慰安婦についても、韓国政府が真剣に取り組むようになったのも2000年代に入ってからだ。1990年代以前には政治交渉に持ち出されることも、国民的な運動が起こることもなかった。
さらに、私が疑問に思ったのは、次の部分だ。
「性の問題に関して、フェミニズムナショナリズムは、常に緊張関係にあったが、敵対(?)する日本に対するものとは対照的には、アメリカに対しては非常に寛容だった」「つまり、米軍相手の売春は比較的自由であり、法律的な制約はあまりなかった」(P180)
少なくとも、朴正煕大統領時代のことを考えるなら、「日本に対するものとは対照的」というのはあたらない気がする。 崔先生も本書の中で言及されているように、日本人観光客相手の売春も特別な許可証を与えられ、かなり自由に行われていたからだ。 そして一般国民はといえば、米軍相手の「ヤンカルボ」も、日本人相手の「キーセン」も、同じように差別し、蔑んでいた。

2,韓国人と日本人の貞操観念の違いは、近代化の速度の差によるのか。あるいは文化的にまったく異なる素地があるのか。
p190から始まる「韓国人の貞操観念」という章は、大変、面白い。たとえば、「韓国人は性を抑制するために、禁欲するのではなく、謹慎する」(p191)
ここまで、儒教における性を、キリスト教や仏教などと比較して、上手に表した言葉はないのではないか。儒教は謹慎を強いる、それは女性にのみ厳格で、男性には寛容というダブルスタンダードである。性を謹慎するとは、――つまり女性においてのみ、夫に出会うまでは謹慎期間が続く。そして結婚後は夫以外との性は、たとえ夫と死別しても、「永遠の謹慎状態」となる。
ところで、その後に登場する日本人と韓国人の貞操観念の違いについては、少々理解にしにくい。たとえば「冬のソナタ」が例にあがっているが、確かにここに出てくる貞操観念は日本では1960年代までの意識にように感じる。つまり、先生が指摘されるように、日韓で、特に女性自身の貞操意識に「時差」があるのはわかるのだが、それは単に近代化の速度の差なのか、儒教や韓国文化に根ざした意識のせいなのかが、うまく読み取れない。
それはおそらく両方だと思う。
この後半部分については、ぜひ2000年代以降の韓国の変化が書き加えられるべきだと思う。
本書には1995年代半ばの大学生の性に関する意識調査の結果が例として引用されている。私はその頃、梨花女子大の学生たちと同じ下宿で暮らしていいたので、この部分はリアルに理解できる。たとえば、同じ下宿にいた女学生が強姦されたことがあったが、彼女を慰める言葉が「処女膜再生手術があるから、そんなに落ち込まなくていい」という言葉であり、実際に彼女はすぐに手術を受けた。あるいは、日本の女子高生は自転車で学校に通うと言ったら、「そんなことをしたら処女膜が破れるじゃないか」と言われた。
ただ、その後に韓国女性の変化した。2000年代に入ってから、「戸主制の廃止」、「同姓同本の結婚の許容」、「姦通罪の廃止」など、女性に関する法律が矢継ぎ早に改定された。また新生児の男女比率も解消され、今はむしろ「娘がほしい」という声を現実社会ではよく聞くようになった。また、処女膜再生手術よりも、出産後の膣を締める手術が話題になったりもした。そして、昨今のMeToo運動にいたるまで、韓国の女性たちの意識は大きく変化している。
それは表面的なものなのだろうか?
崔吉城先生の著作はいつも刺激的だ。とりあえず、ここまで書いておいて、あとはもうちょっと考えようと思う。