関東大震災の日にー西崎さんの本の話

一昨日、日本に帰国しました。そして、今日は9月1日。この夏はずっと海外で仕事をしながら、4月に創刊した『中くらいの友だち』の最終編集をしていました。

欧州や他のアジアの国から見る日韓の風景は、当事国で見るのとはずいぶん違っていました。細かい情報が削り落とされるせいか、構図は比較的単純になり、例えば、現在の国のパワーは韓国が圧倒的な印象的だし、しかし知名度というならノースコリアの方がさらに高い。関心の順番で並べるなら、北朝鮮の脅威→韓国家電やKPOPの魅力→日本料理やアニメといったぐあいでしょうか。

一方で、海外のメディがが伝える日韓の歴史問題は、帝国主義と植民地、強者と弱者、殺した側と殺された側の関係です。それが「合法であった」とか「数字に誇張がある」とか「やられた側にも非がある」と等の話は、基本構図を変更するものではない。学術論文ならともかく、政治家や大手メディア、一般国民がそこにこだわりのは異様な印象です。

昨年、11月に朝日のウェブロンザで、「『関東大震災朝鮮人虐殺の記録』(西崎雅夫編著)の重さ」という記事を、3回に分けて連載しました。
http://webronza.asahi.com/politics/articles/2016110900003.html
西崎さんを紹介してくれたのは、友人の韓国文学翻訳家である斉藤真理子さんで、彼女たちや別の友人もこの証言集の制作にボランティアで参加していました。1年前に書いた原稿に、少しだけ手を入れ、今日9月1日にこの休眠ブログに再掲します。本来は西崎本を手にとってほしいのですが、とりあえず以下の文中にある「改ざんされた『子供の震災記』」の部分だけでも、お読みいただければと思いです。よろしくお願いいたします。

東京で起きた民族ジェノサイドの記録

 私は昨年の秋、いつになく長い時間をかけて、『東京地区別1100の証言――関東大震災朝鮮人虐殺の記録』(2016年9月、現代書館)という510ページの新刊本を読んだ。編著者である西崎雅夫さん(58)は元高校教師、30年以上にわたり、仲間と一緒に朝鮮人犠牲者の慰霊と真相究明のための活動を続けてきた。

 1923年9月1日午前11時58分、関東地方で発生したマグニチュード7.9の大地震は、死者・行方不明者10万5000人以上という未曾有のものだった。そして地震の直後から「朝鮮人が放火した」「井戸に毒を入れた」「集団で襲ってくる」という流言が出回りはじめ、その結果、おびただしい数の朝鮮人や中国人が、日本人の手によって虐殺された。
 その数は何千人とも言われているが、はっきりした数字はわからない。当時の日本政府は諸外国の目を気にして事件を隠蔽し、さらにその後も国レベルでの真相究明が行われてこなかったからだ。
 西崎さんたちが活動を始めた1980年代には、まだ震災体験者が存命であり、近隣のお年寄りから話を聞くこともできたそうだ。生存者がほとんどいなくなって以降は、都内各所にある公立図書館を周り、自伝・日記・郷土資料などに片っ端からあたり、震災時の朝鮮人虐殺事件の目撃証言を集めたという。
 「何十冊に一冊の割合でしか証言を見つけることはできないのですが、それでも5、6年かけるとかなりの証言を集めることができました」
 その集大成が、この本である。510ページ、3段組、厚さ4センチという重量感ある本の中には、1100の証言が地区別に整理され、紹介されている。
 
 正直な告白をすれば、私自身はこの本の話を聞いたとき、それほどの大きな関心はもたなかった。虐殺事件のことは「知っていた」し、日韓関係は次から次へと問題が起きてきて、それを追うだけでも大忙しだった。

9月の青空のもとで、白昼堂々と…
 ところが昨年9月、西崎さんにお会いし、実際に本を手に取った瞬間、私の考えは変わった。まず、本のカバー写真に目を奪われた。そこには虐殺が行われた荒川土手の、きれいな青空が広がっていたのだ。
 今までモノクロ写真で見ていた過去の悲劇は、暗闇でこっそりと行われたものではなく、この9月の青空のもとで、まさに白昼堂々行われたジェノサイドだった。
 そして本を開くと、目次には足立区から目黒区まで、東京23区がもれなく「あいうえお順」に並んでいる。23の区に分類された証言の総数は1100、証言者の年齢、職種、階層はバラバラである。文筆家もいれば、小学生もいるし、中には皇族方の証言も入っている。23区それぞれの地域で人々が震災直後に、「どんな噂を信じ」、「どんな恐怖にかられ」、「どんな形の虐殺を行ってしまったか」が、複数の目を通して立体的に復元されている。
 その直前に、WEBRONZAで「徳恵姫」について書く際に読んだ資料にも、震災についての記載があったのだが、それもこの本に収録されていた。 皇族から李王家に嫁いた李方子の母親、梨本宮伊都子の日記の一文である。
 「朝鮮人の暴徒押し寄せて来り今三軒茶屋のあたりに300人もいる。それが火をつけてくるとのこと。これは大へんと家に入…」(『関東大震災朝鮮人虐殺の記録』P161)
 実のところ私はこれまで、「流言に騙され、虐殺に加担したのは、下町に住む一部の血気盛んな連中や妙な正義感にかられた町の青年団的な人々」というイメージを持っていた。ところが、国家の中枢に近く、身分としては最上位、しかも娘を朝鮮の王族に嫁がせた人までが、デマを信じあわてふためいていた。
 そして、この本を読んであらためて驚いたのは、軍や警察という本来は暴徒を鎮める役割をする組織の一部が、自ら流言を拡散し、虐殺の先頭に立っていた事実である。

 1100の証言から浮かび上がる、虐殺の風景はむごたらしい限りである。生きた人間の足に鳶口をかけて地面をひきずり、針金で縛りあげた人間を取り囲んで日本刀や竹槍でメッタ突きにする。さらに斬首の目撃証言もある。
 「人間の首なんてなかなか切れるもんじゃない。振りおろすと半分ぐらい切れて、血が飛び散る。手をあわせて、おがむのをぶった切ったのを見ました」(同書P248)
 まるでIS(イスラム国)の処刑シーンのような、ルワンダ内戦の映画のような、恐ろしいジェノサイドが、東京23区全域で行われたのである。なぜ、90年前に東京の人たちは、こんなにも残酷なことをしてしまったのだろうか? 

発掘・移送された遺骨
 西崎雅夫さんの自宅は東京・荒川土手の「現場」にある。 自らそこに移り住んだのは、虐殺現場に慰霊碑を立てるにあたり、 近隣の人々からの理解も得るためだったという。
 「自分が中学生の時にサッカーをして遊んでいた河川敷が、実は震災時の朝鮮人虐殺事件の現場であり、今も遺骨が埋まっているという話を聞いたのは大学4年生の時でした。私は発足したばかりの『追悼する会』に入り、まずは遺骨の発掘にとりかかりました」
 ところが、「確かにここに埋めていた」という地域のお年寄りたちの証言にもかかわらず、遺骨は出てこなかった。しばらくして、その理由がわかった。河川敷の遺骨は震災の年の11月12日と14日の2度にわたり、警察によって発掘・移送されていたのだ。
 西崎さんたちが発見した当時の新聞によれば、14日の2度目の移送でも、「トラック3台分」の遺骨が運ばれたとあった。遺骨の移送先は、現在も不明である。西崎さんたちは調べれば調べるほど、当時の日本政府・軍部・警察が、この虐殺を徹底的に隠蔽しようとしたことがわかったという。
東京都墨田区の荒川河川敷でおこなわれた朝鮮人の遺骨発掘作業。「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し慰霊する会準備会」が現場で慰霊祭を行った=1982年9月1日
 公的な資料がない一方で、発掘や慰霊祭の現場を通りかかった近所のお年寄りからは、「私も見た」「私も知っている」という話が次々に寄せられてきた。
 そこで西崎さんたちはそうした証言をまとめて1992年に、『風よ 鳳仙花の歌をはこべ――関東大震災朝鮮人虐殺から70年』(教育史料出版会)というタイトルの、墨田区北部における朝鮮人虐殺目撃証言集を出版した。
 
 そうしているうちに西崎さんは、東京の他の地域のことが気になり始めたという。
 「自分が生まれ育った足立区や高校生活を送った上野・浅草。そこでは、震災時に何が起きていたのか?」
 ただ、その時はすでに震災から80年もたっており、当時を記憶している人はほとんどいない状態だった。そこで、23区内の公立図書館などを虱潰(しらみつぶ)しにあたって、郷土史などの資料を読み込んだのだ。 ところで、西崎さんはこの作業の中で、とんでもないものを発見してしまう。それが本書の巻末に収められた『子供の震災記』である。

改ざんされた『子供の震災記』
 『子供の震災記』は小学生の震災体験記である。発行は震災翌年の1924年東京高等師範学校付属小学校の教師たちが、生徒たちの作文のうち100人分を選んで編集した。西崎さんが最初にこの本を見つけたのは江東区の図書館だったが、特に朝鮮人虐殺の記述はなかったため、参考にしなかったという。ところが、ある日、たまたま国会図書館に所蔵されている同書を見て驚いた。
 「同じ題名の本が2冊あるので変だなと思って比べてみたら、2冊の内容が微妙に違うのです」
 一冊には朝鮮人に関する流言や虐殺に関する記述があるのに、もう一冊はそれが別の言葉になっていたり、ごっそり抜けて挿絵に変わっていたりする。さらに、奥付を見ると、記述がある方の一冊は検印がなく、記述が抜けている方には検印があるのだ。
 これが何を意味するのかは、誰の目にも明らかだ。検印のないものが原本であり、検印を受けるため、つまり正式に出版するために内容が変えられたのである。現在、区立図書館などに収蔵されているものは、すべて検印を受けたものだという。
 ところが、なぜか国会図書館にだけ1冊、原本が存在していたのである。これについて、自らも教師だった西崎さんは、次のように推測する。
 「私はこの本を作った現場の教師の一人が、国会図書館に保存したのではないかと思っています。子どもたちの作文を改ざんしてしまったことを詫びる気持ちがあったのではないでしょうか」
 それにしても、ものすごい改ざんである。詳しくは本書を見ていただきたいが、たとえば原文にある「不逞鮮人、朝鮮人、鮮人」という言葉はいずれも、「変な人、泥棒、盗人、悪人、悪い奴、脱獄人、掻(か)っさらい、不良少年」という表現に変えられ、子どもたちが目撃した暴行や虐殺を、まるで「犯罪者を懲らしめた」かのように正当化する。また、「今も一人殴り殺された」「足でふまれ木でたたかれて泣き声を挙げている」というような文章はまるごと削除されている。
 「改ざん」とともに私がショックをうけたのは、こんなにも子供の目撃証言が多かったという事実である。この時の東京の大人たちは、子供の前でも恥じることなく、残虐行為をしていたのだろうか。
 西崎さんによれば、当時の他の資料でも朝鮮人関連の記述は伏せ字にされていることがほとんどだという。「朝鮮人虐殺事件を歴史から消し去ろうという権力側の強烈な意思がうかがえる」(本書P463)というのは、まさにその通りだと思う。
 1923年といえば、1919年の3・1独立運動からまだ4年目である。虐殺が明るみになれば植民地民衆の怒りが独立機運をさらに激化させるばかりか、世界的にも日本は植民地支配の正当性を失うかもしれないと政府は恐れたのだろうか。
 ところで、この本に収められた1100の証言は、その多くが日本人のものである。西崎さんたちは「追悼する会」を発足した1980年代には韓国を訪問して聞き取り調査もしている。ところが、被害者である韓国人側の証言はとても少ない。
 実は韓国では他の歴史問題、たとえば従軍慰安婦や徴用工の問題に比べても、この事件への関心は高くない印象がある。それはどうしてなのだろう?

被害者側の証言が少ない理由

 この本『関東大震災朝鮮人虐殺の記録』の特徴の一つは、収められた1100もの証言のうち、被害者側によるものが極めて少ないことだ。
 これまで歴史的な事件を告発する本の多くは、被害者側の証言を中心に綴られてきた印象が強い。ところが本書において、韓国・朝鮮人による証言はわずか39に過ぎない。その他には中国人の証言が10、残りは全て日本人によるものである。
 既に述べたように、本書に登場する証言者の年齢、職種、階層はバラバラであり、文筆家もいれば、小学生もいるし、中には皇族方の日記等も混じっている。 実に多様な層による証言が事件を立体的に見せる一方で、被害者側からの告発部分だけが大きく欠けている。なぜだろう?
 最大の理由は言うまでもなく、直接の被害者たちが殺されてしまったからだ。当たり前だが、殺人事件では被害者本人が事件について語れない。その上で九死に一生を得た人々等による39の証言が収録されているのだが、その中には80年代初期に編著者の西崎雅夫さんたちが韓国に赴き、じかに聞き取り調査をしたものも含まれている。

 「追悼する会で渡韓調査を実施したのは1983年、1985年、1986年、1989年の4回です。そのうち、私は1983年と1985年の2回の調査に参加し、10名の生存者にお会いすることができました」
 ふりかえる西崎さんは、一度目の訪韓の時はまだ大学生だった。彼がメンバーの一人となった「追悼する会」とは、荒川土手の遺骨発掘に参加した人々によって1982年に結成された「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し慰霊する会」(のちの「追悼する会」)のことで、今も毎年9月に慰霊祭を行っている。当時大学生だった西崎さんも、今では白髪頭になってしまった。
 渡韓調査で面談できた生存者のほとんどは「元留学生」であり、彼らは「日本語が話せたことで九死に一生を得た」という。しかし、震災当時の日本にいた朝鮮人の大多数は、日本語のできない出稼ぎ労働者だった。「1100の証言」の向こう側にある「圧倒的多数の無言」。事件の全容はいまだ「無言の宙」に浮いたままなのである。
 訪韓調査にあたり、地元韓国の新聞やテレビなどの協力も得られたが、新しく生存者を見つけることは困難を極めた。30年以上前とはいえ、当時すでに関東大震災から60年もたっていた。20歳だった人が80歳。今でこそ韓国にも元気な80代は多いが、当時としては明らかに「遅すぎた」調査だった。

日韓政府の責任
 もちろん、西崎さんたち以前にも、この問題に取り組んだ大勢の人々がいた。なかでも1963年にみすず書房から出版された『現代史資料6 関東大震災朝鮮人』(姜徳相・琴秉洞編)は、もっとも先駆的かつ包括的な資料集であり、その範囲は当時の電報や公文書、言論機関の報道や議会での答弁、さらに一般人の目撃証言まで多岐にわたる。
 全646ページの重厚な資料集からは、事件の全容を明らかにしようとする編者たちの必死の思いと、しかしながら肝心のものが出てこない苛立ちと悔しさを感じる。
 「軍関係の公文書は、敗戦時に多くが焼却されてしまいました。だから、虐殺事件の実態は明らかにされないのです。ただ、どこかに眠っている可能性はあります。役人というのは、いざという時のために、こっそり保管する癖があるのです」
 だからこそ、西崎さんは日本政府に対しても、事件の真相究明を求めてきた。政府が自らの責任として真相究明に当たらない限り、事件の全容は明らかにされない。そしてその「不明」が「新たな流言」(「歴史修正主義」など)や「新たな隠滅」(教科書からの削除など)を生み出していく。
 ところで、震災時の虐殺事件では、朝鮮人だけでなく中国人も犠牲になっている。こちらは、中国人が外国人であったために外交問題となり、不完全ながらも調査が行われ、外交文書も残された。ところが、朝鮮は日本に「併合」されており、外交的に抗議する主体は失われていた。殺された朝鮮人は、当時はすべて「日本国籍者」だったのだ。
 かつて生存者たちは、訪韓した西崎さんたちに、こんな風にも言ったという。
 「韓国は日本の属国であったから。いくら殺しても、それを処罰する存在がなかった。中国人は大きな国が(背後に)あるからできない」(羅祥允さん・女子美大留学中に被災)
 「国がなければ個人もなし。国がないから虐殺される運命にある。[略]強い独立国家を作らなければならない。鎮魂祭もいいけど、強い国の国民にならなければ」(崔承萬さん・東京朝鮮基督教会館総務職の際に被災)
 しかし、現在の韓国でも、例えば「従軍慰安婦問題」などが、まるで「政治カード」のように利用される一方で、関東大震災朝鮮人虐殺についてはほとんど話題にならない。どうしてなのか?
 それは、当事者がいないからだ。「従軍慰安婦問題」が政府間合意にまで発展したのは、当事者が名乗り出て、まずは自国政府の怠慢を追求したことによる。日本政府と交渉しない韓国政府の責任を裁判に訴えたのだ。韓国政府は裁判所の命令で日本政府と交渉をせざるを得なくなった。決して自発的ではなく、被害者と支援団体に動かされたのである。
 でも、関東大震災の場合は、その被害者が名乗り出ることはできない。殺された人々の全体数も、それがどこの誰であったかも、今日まで明らかにされていないのだ。

告発よりも共感を
 「今も韓国の人から『祖父の遺骨を探せないか』という問い合わせがあります。そういう時が一番辛い。何もしてあげられないのです」
 西崎さんは話の最後に、とても悲しそうな顔で、そう言った。
 目の前には荒川があり、本のカバーにある風景が広がっていた。かつて西崎さんがそこでサッカーをする少年だったように、今も地域の人々にとって河川敷は憩いの場となっている。犬の散歩をする人々を見ながら、祖父の遺骨を探しているという同世代の韓国人のことを考えた。
 当初、この本のカバー写真は白黒だったという。それをカラーに変えようと言ったのは、手弁当で編集を手伝ってくれた、西崎さんの大学時代の仲間たちだった。
 「長年市民運動をやってきて思ったのは、告発することでは人は変わらないということです。むしろ人間として共感できる部分から語りかけることで、人の心は動くのではないか。そんなことを皆で話しながら、写真を選んだのです」
 仲間の1人は在日韓国人だった。彼は言ったそうだ。
 「俺がその事件を体験したとしたら、最後に目に映ったのが空と草原だったと思う」
 それぞれの祖父の代に起きた、あまりにも悲しい出来事を記録する本のカバーに、西崎さんと仲間たちは美しい東京の青空の写真を選んだ。
 「告発よりも共感を」――西崎さんは、こうも語る
 「私の父方の祖父は関東大震災時に東京下町の日暮里で、路面電車(東京市電)の運転手をしていました。祖父から地震と火事の恐ろしさは何度も聞きましたが、“朝鮮人虐殺”のことは聞いたことがありません。目立つことが大好きな祖父の性格を考えると、おそらく在郷軍人として自警団に参加したはずです。もしかしたら虐殺の当事者かもしれません。だから、私はそもそも“告発する側”になど立てないと思うのです」
 私(筆者)の祖父も東京の人だった。若い頃に愛知県に移り住んで世帯をもったと聞いていた。
 今回のことで、あらためて戸籍謄本を見てみたら、明治30年(1897年)東京市神田区佐柄木町(現・千代田区神田淡路町)生まれ、大正12年(1923年)に愛知県で婚姻届が出ている。どうやら、ギリギリで東京にはいなかったようだが、もしいたら、年齢的には真っ先に自警団に招集されていたと思う。
 私たちの祖父だったかもしれない虐殺の当事者たち。しかし、彼らもまた沈黙したままだった。1100の証言の中に、彼ら自身の声はまったく登場してこない。
 つまり、この証言集は直接の被害者だけでなく、直接の加害者の証言も欠いている。第3者による目撃証言という、事件にとって最も有効な「証拠」が集められた本なのである。
 重い証言集だけれど、最後まで読み進めることができた。読み続けるのが辛くならなかったのは、むごたらしい描写の隙間に、多数の「正直で働き者の朝鮮人」や、それをかくまう「心優しい日本人」が登場するためだ。狂気の大虐殺が進行する中にあっても、人間同士の信頼関係を大切に頑張れた人々は数多くいた。その健気な姿に、西崎さんや編集に関わった皆さんの祈るような思いが重なる。この証言集には「希望」がある。