書評ーー朝鮮出身の帳場人が見た 慰安婦の真実―文化人類学者が読み解く『慰安所日記』

正直、『慰安婦問題』は苦手だ。にも関わらず、本を読み、感想を書こうと思ったのは、他ならぬ崔吉城先生の著書だからだ。私は先生をとても尊敬しているし、信頼もしている。崔先生ガお書きになったものなら、何でも読みたい。それが率直な動機だ。
 本は一気に読んでしまった。「従軍慰安婦問題」を扱った本で、こんなにすいすい読めたのは、大沼先生の本を除いては初めてだ。私自身が変わったのかなと思って、随分前に中断していた『帝国の慰安婦』(朴裕河)を、もう一度読み始めましたが、やはり続かない。
なぜ、先生の方は読めたのか、考えてみた。
崔先生の本の表紙や帯には、「慰安婦の真実」とか「本当に強制連行、性奴隷はあったのか」などコピーがあった。おそらく出版社にとっては、これらが現在の日本の読者にとって、最も関心のあるテーマだという判断があったのだろう。
ところで、私はそこにはあまり関心がない。「真実」とか「本当に」いう言葉は信頼していないし、「強制連行」「性奴隷」についても、対立する人々の認識のズレが激しすぎて、政治家や専門研究者ならともかく、私自身がそこで何だかの言葉の定義を得る必要を感じない。
私が先生の本を読みふけってしまったのは、そこではなく別の部分に深く引き込まれたからだ。
1、先生がハングル・日本語仮名まじり・漢字まじりの日記を読むのに、ご自身が最もふさわしいと思われたこと。
2、韓国語訳が出ているにもかかわらず、原本所有者を何度も訪ねて、原文を複写させてもらい、そこから読み込んだこと。
3,しかも、1人で読まずに、研究会を作って、お仲間の皆さんとを1年間かけて読んだということ。
4,日記に出てくる、東南アジア当地を実際に訪ね歩いたこと。さすが文化人類学者だと、これだけでも敬服した。
5,政治的に誤読されるリスクを犯しても、ちゃんと出版しようとしたこと。
先生が本の冒頭で「日記とは?」「日記を書く人間とは?」に、執拗にこだわった理由は、後半になるとわかる。日記に現れる筆者の、日本国への忠誠をどう解釈したらいいのか? 彼は慰安所の仕事に「誇り」をもっていたのではないか、という仮定。
「日記」からは「慰安所」も「慰安婦」も、「一億総火の玉」的なものの中にあったことがわかる。その意味では「挺身隊」という言葉が長らく「慰安婦」と混同されたのも、大きくは間違っていない印象をうける。「国家、天皇に身を挺する」という意味では、文字通りの「挺身」隊であったわけだ。朴裕河さんの『帝国の慰安婦』もこのあたりの問題が出てくるが、崔先生の本が新鮮だったのは、別の視点が提起されていたことだ。
「36年間の植民地支配」「皇国臣民化教育」がどんな風に人間を変え、というよりも、人間のどの部分を変えたのか。
先生がこんなふうも書いている。
「でもやはり、彼の日記の中の日本語は『私と同じミスを犯している』」と。やはりネイティブにはなれない。それは、「同じく36年間、日本で暮らした」崔先生も同様であること。
 これまで『慰安所日記』はその内容にばかり関心がもたれてきた。ところが、崔先生はその「文字」(彼の肉筆)に関心を持った。
 大日本帝国による「同化」は、植民地の人々に限られたテーマではない。終戦のその瞬間には呆然としながらも、しばらくした後に太極旗を手にした朝鮮半島の人々。敗戦に涙しながらも、その夜には電灯の明るさに喜んだ日本内地の人々。
 本書を読み終えた今、私はこの真面目な帳場人に好感をもっている。
 それが彼自身の本当の姿なのか、実はお書きになった崔吉城という研究者の分身なのか、実はよくわからない。


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