釜山国際映画祭2014

今年もまた釜山国映画祭に行ってきた。1996年の第1回目から今年で19回目、毎年かかさず出かけてる。初期は仕事だったが、最近はプライベートも多い、ふらっと出かけて適当に映画を見てくる。予約システムは完備されつつあるけど、出品作すべてのプロフィールを見て事前予約するのは無理。行ってから、空席が残っているものの中から選ぶ。

準備もなく、偶然みたいなもんだ。

とはいえ偶然見た映画の影響は、実に翌年までひっぱる。昨年はたまたまチケットがとれたので、フィリピン人労働者を主人公にした映画を2本続けてみた。舞台はシンガポールイスラエル。1本はフィリピン人メイドの目を通してみたシンガポール中間層のストレス、もう1本はイスラエルに数多くいるフィリピン人不法移民の話、こちらの主人公の仕事は独居老人の介護だった。

子育て、介護、移民労働者。日本のNHKでもしょっちゅうやっているテーマだ。

イスラエルでフィリピン人労働者が急増している背景には、ガザ地区の問題があるのだけど、しかし、それはそれとして、世界は共通した課題を抱えている。そんな時代の先端部分のリアリズムが共有されるかどうかが、国際イベントの価値を決める。その意味ではオリンピックもノーベル賞も同じだ。(ノーベル平和賞は権威が下がりつつあるようだけれど。)

さて、今年の釜山映画祭ではPieter Van HEESというベルギー人監督の作品『荒地(Waste Land)』と、トルコのニューシネマの第一人者Reha ERDEM監督の作品『Singing Women』を見た。本当は『The Kindergarten Teacher』(Nadav LAPID/イスラエル・仏)や『Timbuktu 』(Abderrahmane SISSAKO/2014/仏・Mauritania)も見たかったのだけれど、上映時間が重なったのであきらめた。でも、今年中になんらかの方法で見ればいい。「見たい映画リスト」に作品を増やす。もともとそれが映画祭の目的でもある。

イスラエル映画と迷った末に選んたベルギー映画だったが、これが大当たり。作品もよかったけど、上映後の監督とのティーチインが面白かった。釜山に初めて来たという監督は、この街にも映画祭にも驚きを隠せないといったふうだった。
「なんて若い街なんだろう。真新しい高層ビルが並ぶ街、古いヨーロッパの街から来た私には驚きばかり。映画祭に来ているのも若い人ばかり。ブリュッセルの集まりでは、私がいつも最年少なのに」

1970年生まれ43歳の監督が最年少というのは笑いをさそったが、冗談ではないだろう。東京でも映画関係の集いでは、白髪交じりの人が多い。ところが釜山のティーチイ参加者は20代の若者たちがほとんどで、彼らが次々に質問の手を上げる。監督が驚くのも無理は無い。

『荒地』はT.S.エリオットの詩の題名だ。主人公のレオはブルッセルに住む刑事。パートナーの二人目の妊娠をきっかけにバランスを崩していく。担当する事件にはアフリカ系のコミュニティがからむ。
http://www.imdb.com/title/tt2294939/

ティーチ・インで監督は、「ヨーロッパのアイデンティティ喪失」という言い方をしていた。ベルギーはヨーロッパの中でももっとも「先進国」の一つであり、白人男性であるレオはそこのマジョリティだ。荒地は彼の内面と外部の両方に広がっている。
ヨーロッパのアイデンティティとはつまり、「圧倒的な優位」そのものだったのだろうか。最大の自由、最高の福祉制度、人種や性差別への反対、そして植民地の人々への同情。圧倒的優位が崩れと同時に、それらもすべて揺れ始める。

釜山映画祭はアジアの映画祭として、アジアや第三世界をテーマとして控えめに始まった。なかなか光が当たらない発展途上国の映画や各国のマイノリティーの苦悩を集めて発信する。それが「被植民地を経験した釜山」が自らに課した使命であり、アイデンティティーだった。
そこで欧州の、白人男性の、苦悩と破滅が描かれた映画を見ることになるとは…。今年の釜山映画祭もまた感慨深いものとなった。