イ・チャンドン『詩』poetry

イ・チャンドンの新作映画『詩』。開催中のカンヌ映画祭に出品されると同時に、韓国国内でも上映が始まった。
もともと映画よりも文学に人といわれるイ・チャンドンが、そのなかでも「詩」をタイトルに選んでしまったことは、私としてはなんとも身も蓋もない感じがし、恥ずかしさを抑えながら映画館に行った。

日曜日の朝9:00。観客は10人ほど。私を含め一人のお客さんが多い。休日の朝から何を好んで、これまた恥ずかしさに身を縮めたくなる。


で、映画の方は。
前作「シークレット・サンシャイン」は男の子の死から始まるが、今度は少女の死が冒頭にある。その遠景にパレスチナのニュース映像が、まるで野球中継のように写っている。
前作が男の子の母親にはちょっと別の緊張感を与えたように、こちらは女の子の母親がやられる。ちょっと遠近法がゆがむの修正するために、一歩、後ろに引かなければならない。
そしてそれを責められる。
「なんで引いたんだ?」「なんで引いたんだ?」「なんで引いたんだ?」


主人公は66歳の女性だ。寝たきり老人の介護の仕事をしながら、中学3年生の孫と二人で暮らしている。暮らし向きは決して楽ではないが、好奇心旺盛な彼女は、仕事と家事の合間をぬってカルチャーセンターの詩作講座に通う。
「まずは対象をよく見ることです」
講師の言葉に忠実に、女性は物事を一生懸命見ようとする。リンゴを手にとり、野の花に鼻をつけ、農村の風と光に包まれ、そしてとうとうある「事件」をも、直接手にとってみてしまう。


イ・チャンドンの映画は興行的にはあまり成功しない。
同時に封切られ、同じくカンヌ映画祭に出品されているイム・サンスの『下女』に比べても、観客動員数ははるかに落ちる。
芸術映画にありがちな「難解さ」だけが原因ではない。
「見るものを苦しめる映画」
拒否感を示す人も多い。私はオアシスがダメだった。

一方で、根強いファンもいる。
その中にはこの映画を、故盧武鉉大統領へのレクイエムだという人がいた。映画に大統領が登場するわけではないし、監督本人が何かを語っているわけでもない。でも、二人の関係を考えれば、その思いがこめられないはずがない。
二人三脚で政権をつくり、文化観光部長官というポストまで分担した。ところが政権交代後、イ・チャンドンは映画監督に戻り、すぐさま作品制作の機会をもった。それがカンヌ映画祭で脚光を浴びたのは2007年の今頃、一方イ・チャンドンとは
そんな彼自身が、「傍観者」であることを嘆いている。
声なく、地面を叩いて…。