中央日報【その時の今日】日本「特別志願兵」を口実に学徒出陣させる

中央日報の記事。日本兵となった朝鮮人学生の話だ。

http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=125342&servcode=400§code=400


第2次世界大戦末期の狂気。今の時代からは想像もできないことが行われていた。
当時の人々個人の行動を、今の基準で判断することは、正しいとは思わない。

日本兵として戦い、亡くなり、傷ついた植民地の人々。韓国人や台湾人の元日本兵は、その「利敵行為」ゆえに、後の自民族の政権下で辛酸をなめた。
一方、日本はそんな「元日本兵」を、軍人恩給などの一連の戦後補償から除外した。

第2次世界大戦では、日本に限らず多くの国で、植民地の兵士たちが宗主国の軍隊に入って戦っている。戦後は独立して、「外国籍」となった彼らでも、「兵士」としての貢献した過去は称えられ、補償もされている。
日本は特別だ。

今、話題の外国人参政権については、国籍のない人にそれを与えないことは、「差別」とはいえないかもしれない。
でも、日本国籍をもち、日本兵として戦った人々が、補償から除外されたのは、明らかに差別だと思う。


以下、新聞記事の引用。


1941年12月の真珠湾攻撃以降、日本帝国は破竹の勢いで東南アジア全域を手にしたが、半年ぶりの翌年6月、ミッドウェー海戦(日本側作戦名「M作戦」)をターニングポイントに破滅の道を歩みはじめた。

B29爆撃機が帝都・東京の空を襲いはじめ、米軍は日本本土に向かい戦線を狭めてきた。「賢者は宗教的信仰を守るため、神様と教祖に献身するが、我々凡夫が身を捧げるのは国のためである。今日置かれている国家の危急というときは、もはや国と自己は同体だ」。

「大東亜共栄」という名分とは異なり、明白な侵略戦争の「アジア・太平洋戦争(1931〜45)」が終末へ向かっていた1943年5月。京都帝国大学の哲学教授、田辺元は「死生」という演説で、生き方ではなく死に方を語ることにより、大学生を死地に追いやった。そのとき、日本の共産主義者すらほぼ全員が転向し、戦争に協力した。

同年10月20日。窮地に追い込まれた日本は「陸軍・特別志願兵の臨時採用規則」を発布し、植民地・朝鮮(チョソン 1392〜1910)の専門学校・大学の在学生や卒業者まで戦線に追い出した。各媒体を総動員して学徒兵の志願を宣伝することに必死になった。

「同じ国の同じ国民として、内地人(日本人)だけ第一線で血まみれになって活躍している。、我々半島の人も学窓で勉強ばかりしてはいられない」「李仁錫(イ・インソク)上等兵が私のように死ななかったら、今ごろ無名の農夫にしかなれなかったはずだ。無名の農夫か、勲章をいただくため一躍世の中に名を馳せた護国英霊のうち、どちらがいいだろうか」

1943年11月15日付の総督府の機関紙「毎日新報」に掲載された「学徒出陣激励・母親の座談会」で、日本と朝鮮の母親が交わした座談は、当時の実像を伝えている。

学徒兵は、志願兵という美名とは裏腹に、実像は対象者の100%志願を目ざし、各種の宣伝による懐柔や警察を前面に出した脅威を通じて強制的に動員された。朝鮮の専門大学(短大)の在学生1000人のうち959人、日本と満州の留学生2929人のうち2150人、それぞれ96%と77%に上る志願率がその強制性を雄弁する。

「あなたたちが血を流した後も、日本が韓民族に良いものを与えなくても私が血を流し戦うだろう」(李光洙「私の告白」、1942)。この地の青年に侵略戦争に加わるよう訴えた者はナショナリストだけではなかった。1943年の「京城日報」に「半島の2500万人に上る同胞に訴える」という文を掲載し、学徒兵の参加を勧めた独立運動家・呂運亨(ヨ・ウンヒョン)や小説家・李光洙(イ・グァンス)を攻撃した金明植(キム・ミョンシク)のような社会主義者らもその隊列に入っていた。民族の指導者や民衆、誰も時代の狂気から自由になれなかった時であった。

慶煕(キョンヒ)大学部大学長・許東賢(ホ・ドンヒョン、韓国近現代史