子供の言語

数日前のこと、食卓の上のチョコレート味のパンがおいてあった。パン好きのチビ、でももうすぐご飯なのはわかっている。そこで…、
「ねえ、あのやぶれたところだだけ、食べていい?」

見ると、パンが少しだけ欠け落ちている。一口大。
でもね〜、「やぶれている」かあ…。

最近、こういうのが頻繁だ。
太っている傘、やせている傘とか。
日本語を直してやれるのは私だけだから、そのつど指摘はするものの、あんまり口やかましく言って、自信を失っても困るし。


知り合いに、「日韓バイリンガル」の女性がいる。
彼女は小さい頃から、家庭では日本語を話し、韓国で小中高を、日本で大学を出た。
その彼女は、どちらの言語も上手だが、どちらもちょっと自信がない。
「単語を知らない」、「いい間違いをすること」を極端に恐れている。

誰だって、読めない漢字はいっぱいあるし、知らない言葉もいっぱいある。私なんか、「自分がバカだから」と思うだけだが、彼女の場合は、それが「やっぱり私の日本語はダメだ」につながる。
韓国語に関しても同様だ。

学校での成績は悪くなかったと思う。だって、大学は日韓両国でまともに受験しており、両方ともそれなりのところに受かっている。(本人は日本の国立大学を選択した)。

彼女がかわいいのは、大人になった今も、通訳の仕事などをしていて困ると、お母さんに電話することだ。
専門的な日本語の質問には、お母さんも困るだろう。(お母さんが「そんなの知らんわ」というと、私に電話がかかっている。)
お母さんやその背景(日本のおばあちゃんなど)との絆である日本語は、宝物だよね、と思いつつ、でも、本人が自信を持つにはどうしたらいいのだろう?


二つ以上の言語を話し人は世界的にはいっぱいいる。
ヨーロッパや東南アジアでは、モノリンガルの方が珍しいかもしれない。
一つの言語が機軸に(ファーストランゲージ)になっている場合もあるし、まったく平等に複数の言語が成立している人もあるという。

日本語と韓国語では、それが難しいのかもしれない。
両方とも極端に排他的な言語であること。
ちょっと訛り、いい間違いも見逃してくれないしね。

「お客さん、外国の方ですね」
何年たっても、タクシーの運転手にしつこく言われる。
日本も同じだ。外国人であることやバイリンガルであることがわかると、ああ、だから「ちょっとこっち足りないのね」って。ただのバカだとは、なかなか思ってくれない。

その点、英語は…。
すでに「国語」を超えた、「普遍語」としてあるのだから、日本語や韓国語のような排外性はないのだろう。

というようなことを、疑問にもちつつ、この本を注文した。
日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で」(水村美苗


http://d.hatena.ne.jp/oda-makoto/20090206#1233957230