教育は宗教だ。

うちの隣に、満4歳の子供がいる。娘とも仲がよくて、小さいときから行き来しているのだけど、最近ちょっと疎遠だ。
子供たちは遊びたがっているのだけど、それができない。
あちらの事情は、幼稚園での居残り学習と週3回に増えた家庭教師。フリーなる時間が遅いこと。
こちらの事情は、親子ともに就寝時間が早いために、時間が合わない。

こういうことを書くと、「幼稚園児に家庭教師! そんなのかわいそう。子供はもっとのびのびと遊ぶべき…」という意見がすぐ聞こえてくる。
韓国の人々だって、口ではこう言う。でも、それは建前だなと、最近はわかった。やはりこの国の人々は、「勉強すること」を幸福だと思っている。不幸なのは、それをする機会を与えられないこと。だから、40になっても50になっても大学に行くし、棺桶に入る人々には誰もに「学士」の称号が与えられる。

上海から帰ってきた駐在妻(日本人)が言っていた。
「向こうでも、韓国人の勉強熱はすごかった。みんなが英語塾に通っている」
「みんな」というのは子供ではなく、奥さんたちのことだ。日本人女性は中国料理や切り絵を習うが、韓国人女性は英語やジム。なるほどね、という感じだ。

韓国の人々にとっての勉強は、宗教、信仰。こう考えたほうが、理解はしやすい。 つまり宗教教育ではなく、教育宗教。
だから異教徒が見て、これを「行き過ぎだ」と批判するべきではない。もちろん、どんな宗教にも「原理主義」や「急進派」はいるから、その内部で論争が起こるのは当然だが…。


タイの子供がお寺で修行する。世界には苦労してメッカや聖地巡礼の旅をする人々がいる。異教徒には、その「苦労」は想像できても、「喜び」は理解できない。

隣の4歳児のおばあちゃんは、「まだ早いかもしれないけど、本人が喜んで勉強をしているから」という。
すでに喜びをかみしめているのだ。(本人も家族も)、