キムチ景気

 月曜日、我がマンションのエレベーター乗り場が騒然としていた。中心には隣家の奥さん。横ではご主人がオロオロ。もう一組夫婦がいるが、彼らもしかめっ面だ。ただならぬ雰囲気に、できれば素通りしたかったのだけど、目が合ってしまった。仕方なく「アンニョンハセヨ」とご挨拶したところ、すかさず…。
 「ねえ、チョッカルのツボ見なかった? 四つあったのに一つ無くなったのよ!」
 チョッカルとは塩辛のことだ。梅酒などをつけるときに使う大きなツボ(広口の容器)で販売される。
 「いえ、見ていませんけど。ああ、キムジャンをなさるんですね?」
 思わず普通の会話をしようとしたが、相手はそれどころではなかった。私の話を無視したまま、マンションの管理人に向かって、「なくなったツボ」の行方を問い詰めている。「そんなの僕に聞かれても…」と困惑する管理人。これは大変だ。
 
 この日、隣家の夫婦はキムジャンの買出しに行っていたのだ。韓国ではこの季節、キムチの材料を購入するために、地方に向かう人が多い。一日かけて、白菜、大根、塩、チョッカルなどの産地を回る。旅行会社が主催するバスツアーも出るし、何家族かが一台の車に便乗して出かけることもある。
 「キムジャン渋滞」――この時期の週末は、そんな言葉も聞かれるほどだ。
 今年は特にこの渋滞が激しい。理由は二つ、①原産地に行かないと商品が信用できない。②白菜などの原産地価格が異様に安い。
① は原料に関する不信感。唐辛子や塩などに、中国産の廉価なものが混入されている事件は後を立たない。
② に関しては、白菜・大根の二大キムチ用野菜がともに昨年の半分以下の価格だ。たとえば白菜の原産地価格は一株250w(約20円。ちなみにうちの近所のスーパーでは1800wもする)。さらに下落を抑えるために、出荷調整がなされている。

「江原道に行ったら、畑に白菜や大根がごろごろ落ちているの。そのまま拾って来ようかと思ったら、旦那がみっともないことするなって」
 友人の日本人妻が言っていた。
 キムジャン渋滞は大変だけど、これの精神的効果はすばらしい。おりからの大不況にもかかわらず、今、韓国の人々はみんな「ご機嫌」なのだ。キムチがいっぱい作れるから。以前、ロシアでこんな話を聞いた。他のことはともかく、ウォッカの値段を上げれば暴動が起きると。韓国ではやはりキムチなのだとあらためて思う。自動車でも造船でもない、キムチこそが「基幹産業」なのだ。
 隣家の揉め事は、三つのツボを2家族でわけることで落ち着いたようだ。
「キムチが漬かったら、おすそ分けするからね」
 翌日、今度は大根を買ってきた奥さんは、もうニコニコしていた。