犬と人と戦争の悲しみ

 私の母は釜山の街が大好きだ。特に夜になると一斉にガス灯をともす南浦洞あたりの露店が、幼い頃を思い出させるという。

 私の故郷の街には戦争中に作られた遊郭があり、母の実家はその入口付近で商店を営んでいた。市電の終点にあったその街は「お上の政策」で作られたため、当時としては珍しく下水道などもひかれ、かなり近代的だったという。呉服屋、下駄屋、薬屋などを軒を並べ、昼夜を問わずにぎやかだったその街は、正月前にあると露店が並び、いっそうのにぎわいを見せた。ガス灯にくしやかんざしがキラキラ光ってとてもきれいだったと母は言う。それは祖父の商店に出入りしていた美しい芸者さんたちとともに、幼い少女には格別のあこがれだっただろう。 

 徴発されたエス

 ところが戦争がひどくなると、芸者さんたちも近くの軍需工場で働かされるようになり、祖父は使えなくなったオート三輪の代わりに犬を一匹買ってきた。

 エスは大きなメスのシェパードで、毎日祖父と一緒に往復4時間の道を仕入れにでかけていた。「エスはよく荷を引いた」――祖父は言っていたそうだ。

 やがて戦争はもっとひどくなり、ついにエスも徴発されてしまった。「毛皮をとるため」という説明があったという。母の実家はエスがいないとそれこそ商売にならなかったが、軍の命令だから仕方がない。祖父は泣く泣く指定の警察署までエスを連れて行った。それから何日かして、小学校に入ったばかりの母と叔父は祖母に連れられてエスに会いに行った。途中の店ではんぺんを一枚買ったそうだ。

 警察署の一角には天井まで届くような大きな檻があって、その中には犬が幾重にも積み込まれていた。折り重なる犬たちの下の方は既に重圧に押しつぶされて息絶えており、上の方の犬も吠えることなく静かに溶けていくのを待っていた。エスはその中間でまだ生きていて、母たちの姿をすぐ認めたという。買っていたはんぺんを一枚やるとおいしそうに食べたそうだ。それがエスとの別れだった。

 犬を埋めた人の心

 韓国に住むようになり、「終戦記念日」は知らず知らずのうちに「8.15光復節」として意識されるようになった。圧政的な加害者としての日本は、残虐であり破廉恥であり、まぎれもなく断罪の対象である。テレビの8.15特番などで再現されるシーンの数々に、日本人としての私は先人たちの愚行に怒りと羞恥でいたたまれなくなる。先日、日本大使館の前で元従軍慰安婦のハルモニに土下座して謝った日本人女性がいたが、いたたまれなさから出た突発的行為としては私にも十分理解できる。私たちの世代は加害者との歴史をあまりに知らなかった。

 ところで先日読んだ朝鮮戦争についての本に犬の話が2件載っていた。一つは戦禍の中、避難先に連れて行けずに死なせてしまった犬を、泣きながら土に埋めた人の話。そしてもう一つはソウルを占領した人民軍に犬を徴発される話。犬の名前はたしかベスだった。人民軍と韓国軍の熾烈な戦い、どちらに責任があるかの政治論議はもちろん必要だ。そしてあらゆる戦争につきまとう謝罪と賠償の問題は、具体的な反省という意味でも、今後の関係性のためにも極めて重要だ。

 でも今日は、犬を埋めた人の悲しみに私は泣きたい。戦争下の悲しい個人的体験は加害国・被害国、戦勝国・敗戦国の違いをこえて共有される。母とベスの主人は同じように犬を徴発された悲しみをもつ、「悲しみの同志」である。(1997年8月)

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これは18年前、在日韓国人団体が発行する「統一日報」のコラムに書いたもの。データはないのだけど、手元に新聞のコピーがあったので、そのまま打ち直してみた。
この後に日韓関係では韓流ブーム、南北では首脳会談があり、時代は前に動いたと言われていた。